江戸幕府の最後
江戸幕府の最後
1867年の幕府と薩長
1867年(慶応3)年1月、孝明天皇の跡をついで明治天皇が15歳の若さで即位した。
そのころ、徳川家茂の跡を継いだ15代将軍慶喜は、これまでの例を破っては旗本からも有能な人材を取用し、財政や軍備の再建に力をいれるなど、衰えた幕府の再建のさめに努力していた。
その様子について、このころの朝廷で公卿の中心になっていた岩倉具視は、
「今の将軍慶喜の動止をみるに、果断専決、志望また小ならざるように考えられ候、決して軽視すべからざる一の勁敵(けいてき 強い敵)と存じ候」
と評している。
また、木戸貫治(孝允)も、
「今や、関東の政令一新、兵馬の制もまたすこぶる見るべきものあり。一橋(慶喜)の胆略、決して侮るべきらず、もし今にして朝政挽回の機を失い、幕府に先を制せらるる事あらば、実に家康の再生をみるが如し。」
と発言している。
一方、薩摩・長州・芸州(広島県)の三藩は、このような状況を見て、もはや倒幕のほかに道はないと考えるようになり、出兵の協定を結んだ。そして、あとは倒幕の勅を持つばかりということになつた。この年、10月のことである。
※ 薩摩・長州・芸州の三藩が、出兵の協定を結んでいたのは知らなかったので、これもビックリ。
幕府側としても幕府の再興に向けて、改革を進めていたし、鳥羽伏見の戦いで「錦御旗」を
幕府が出していたなら、本筋だから、「偽錦御旗」は掲げられなかったのでしょう。
さも、おしいかな、慶喜
先延ばし政策と、なんとかなるさーの幕府のぬるさが招いたのか
ギリギリでは、なんともならないと学んだ一日でした。
反省してます。私も、何とかしましょう。今日一日。
江戸幕府の最後 土佐藩の動き
ところが、このような動きの中で土佐藩の後藤象二郎と坂本龍馬との新しい活動が始まっていた。
もともと土佐藩は、長州藩や薩摩藩のように、倒幕を旗印にしている藩ではない。むしろ、朝廷と幕府が一緒になって、つまり公武合体して、新しい政治の仕組みをつくることが望ましいと考える人々が多かった。けれども、世の中の動きは必ずしもその方向に向かっていない。それてどころか、尊王倒幕の声が高い。おそらく、いくら公武合体を主張しても、「そんな考え方は、今は通用しない。古臭い考えだ」と、反対されてしまうだろう。
そうかといって、薩長両藩のいうように、江戸幕府を倒しても、それですべてが解決するというわけでもない。第一に260年余りにわたって続いてきた江戸幕府の力は、そんなにもろいものではない。いざとなれば、幕府のため、将軍のために働こうとする者は、まだたくさんいる。そうなれば、国内は二つに分かれて、戦国の世の愚かさを繰返すことになる。
それに、かりに薩・長を中心に新しい政府ができたとしても、その政府は、本当に日本全体を従え、この国を正しく導いていくことができるだろうか。
土佐藩の動き
それに、かりに薩摩・長州藩を中心に新しい政府ができたとしても、その政府は、本当に日本全体を従え、この国を新しく導いてことができるだろうか。
このころ、土佐藩の実力者になっていた後藤象二郎は、右のようにさまざまに考えらがら悩みぬいていた。この後藤は、6月、坂本龍馬とともに長崎から京都に向かうことになった。その船中で、竜馬にもそのことを訴えたのである。
しかし竜馬は、持ち前の明るい性格そのままに、
「後藤さん、そんなに悩むことはありませんよ。」これからの日本のとるべき道は決まっています。実は私はすでにその案をまとめてあるのです。」という
そして後藤に示したのが、いま、「船中八策」とよばれている内容を記した一通の文書であった。
この「船中八策」に記されていたのは、
〇天下の政権を幕府から朝廷に奉還させ、政治についての指図は、すべて朝廷からだすこと。
〇天皇の下に上院と下院をおく。上院には諸大名が加わり、下院には家柄にかかわらず、すぐれた人物を選んで入れる。そして、この二つの議政局で政治を行わせる。
ということをはじめ、開国して諸外国と親しくつきあうこと、陸海軍を強くすること、条約を改正すること、「無窮の大典(憲法)」をつくることなどの八策であった。
後藤象二郎は、この意見を耳にして、思わずひざをたたいた。そして、早速竜馬の考えをもとにして、自分なりの案をつくりあげた。
それは、「将軍は、自分から進んで大政を天皇に奉還する。そのあと、諸大名をあつめて『列藩会議』をつくり、将軍はその議長になる。もちろん列藩会議は、天皇をいただいて政治を進める」という内容のものであった。土佐藩の実験を握り、公武合体を進めてきた山内豊信(やまのうちとよしげ)もこれには賛成した。さらに、幕府の老中にもこの案を示して大政奉還をすすめた。10月3日このことである。
将軍・徳川慶喜も、この案には異論がなかった。むしろ、「これならば、たとえ将軍の名はなくなっても、実際には、自分を中心に日本の政治を進めていくことができる」と考えたからなのだろう。
こうして、1867(慶応3)年10月14日、上京した慶喜はついに大政奉還を朝廷に申し出たのである。
しかし、その同じ日、薩摩・長州藩がかねて待ち望んでいた倒幕の密勅が薩摩藩主・島津茂久(しまづ もちひさ)父子と、長州藩主・毛利敬親(もうり たかちか)父子に対して授けられたという。
この密勅が果たして本物であったのか、にせものであったのか、疑問をもつものは少なくない。しかし、この密勅を手にしたことによって、薩摩や長州、あるいは王政復古をとなえる公卿たちが、倒幕の大義名分をもつことになったのはたしかである。