猪苗代城の歴史
猪苗代城の歴史
≪中世≫
猪苗代城の築城については、奥州合戦によって会津を与えられた相模国の御家人佐原義連の孫・経連が鎌倉時代初期に築いたといわれているが、真偽は不明である。
≪近世≫
その後、会津領主は蒲生氏郷、上杉景勝、蒲生秀行、蒲生忠郷、加藤嘉明、加藤明成と続くが、猪苗代城は会津領の重要拠点として、江戸幕府の一国一城令発布の際もその例外として存続が認められ、それぞれの家中の有力家臣が城代として差し置かれていた。寛永20年(1643年)に保科正之が会津藩主となると、猪苗代城には城代が置かれ、また、正之の死後はその墓所(正之は城の北、土津神社に葬られた)の守護という重要な役目も担った。
≪幕末≫
慶応4年(1868年)の戊辰戦争の際、母成峠の戦いで西軍(薩摩藩・長州藩など)が東軍(会津藩・新撰組など)を破って、会津領へ侵入すると、当時の城代・高橋権大夫は城を焼き払って若松へ撤退し、建物は全て失われ、ここに猪苗代城の城としての役割は終わった。
≪近現代≫
戊辰戦争後、猪苗代城跡地は荒廃したままの状態だったが、明治38年(1905年)に町内の有志が日露戦争の戦勝記念として桜を植樹し、その後、公園として整備され、現在も春になると、花見でおおいに賑わっている。また、野口英世は幼少時代に城跡でたびたび友人と遊んでいたという。平成13年(2001年)に城跡は「猪苗代城跡 附鶴峰城跡」として福島県指定史跡に指定された
≪亀姫 (妖怪)≫
亀姫(かめひめ)は、福島県猪苗代町の猪苗代城(亀ヶ城)に住みついていたとされる妖怪。江戸時代中期の奇談集『老媼茶話』の3巻「猪苗代の城化物」に名が見られる。
亀ケ城(猪苗代城)の七不思議の一つ
城内には、「張らずの窓」と、いくら張っても明朝はきれいにはがされる不思議。また「城内で謡曲はやっていけない」と古老がいっていたが、それを聞いた若者八人が「そんな馬鹿な話はあるものか。よしそれでは一つ声高らかに吟じようではないか」と意見が一致した。
夜になってから早速、八人の若者は十本の燭台にあかあかとろうそくを灯し、真昼のように明るくした中で屏風を立て、声高らかに吟じ調子の出始めた頃、突然屏風の影から大きなこぶしが飛んできた、こきんこきんと、いやという程なぐられた。驚いた若者は、一目散に屏風を倒してばらばらと飛び出した。
息せききってようやく我が家にたどりつくと、大きな人間の片足が道をふさぐように横たわって、なかなか家にはいれなく、やっとのこと家に入り青くなっていると、妻が「あなた、外でこんなものは見なかったか」と大きな足をだされて倒れてしまい、朝まで外に寝込んでいたことを、家の人が探しに来て初めてきがついたとのことだ。
『会報二四号 亀ケ城について』より
猪苗代城(亀ケ城)入り口
猪苗代城を訪れた時には、まだ蝉の鳴き声がきこえていました。この城にまつわる妖怪の話は知りませんでした。
何となく陰気な雰囲気でしたが、納得しました。
姫路のおさかべ姫=お姉さんのところに出かける際には、手土産に男の生首を持参するようです。
あ~、怖いですね。
猪苗代城(亀ケ城) ~野口英世博士の想い出の場所~
会津領主の変遷と猪苗代城代