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歴史ネタ帖

孝明天皇と公卿たち

孝明天皇と公卿たち​

​ 幕府による条約調印は、朝廷の発言力を増すきっかけともなるものであった。​

​ もともと江戸時代においては、朝廷は、政治についての発言をほとんどしないで過ごしてきた。政治の実権は幕府にあったし、朝廷には、その幕府に対抗するだけの力がなかったからである。しかし、ペリーやハリスの来日は、幕府の力の弱さをさらけだすきっかけになった。そしてさらに、幕府よりも権威のあるものの力を借りて、この難問を解決しようとする動きを高めた。​

​ つまり幕府は、朝廷の権威を借りて、幕府に反対するものをおさえようと考えたし、幕府に反対する者は、同じように朝廷にたよって幕府の考え方ややり方を改めさせようとしたのである。幕府が条約調印にあたって、朝廷の許しをえようとしたのも、そのあらわれであったと言える。​

​ その朝廷の注進になっていたのは、がんこなほどの攘夷の心を固めていた孝明天皇である。天皇にとって、外国人がこの日本に乗り込み、しかも商売することなど、考えただけでもいまわしいことであった。その気持ちは「外国人の思い通りになっては、天下の一大事である。自分の代にそのようなことになるのは、後々まで恥をさらすことであり、伊勢神宮はもちろんのこと、先祖の方々にも申訳ない。自分は身の置きどころもない思いだ」​

 と記した手紙にも、よく表れている。​その天皇の周りには、関白・大納言など、たくさんの公卿がいたが、公卿のほとんども強く攘夷論を主張していた。しかも、彼らのところには、梅田雲浜(うめだ うんびん)・梁川星巌(やながわ せいがん)・頼三樹三郎(らい みきさぶろう)などという攘夷論者がさかんに出入りして、​

 「外国人は打ち払うできです。わが神国に、いやしい者どもを入れてはいけません。それに、いまこそ外国と手を結んだ幕府に代わり、天皇を中心とする調停が、政治の実権を握るべきだはないでしょうか」

 などと説き続けた。そのため公卿たちの攘夷論が、いっそう固まっていったのであった。

​ しかもこの公卿たちは、これまでのしきたり、つまり政治には関係しないというしきたりを破って、積極的に諸大名やその家来、あるいは攘夷論の浪人たちと結びつき、政治についての意見を述べるようになった。 このように天皇や公卿が諸大名やその家来たちと結びついて、政治についての発言をするようになったことは、江戸時代の終わりごろの特色の一つであった。もちろん幕府の力が衰えたことが、そのような動きをつよめたのである。​

 

 

 孝明天皇

 天保2年、京都生まれ、父孝仁天皇、母は藤原雅子、名は統仁(おさひと)。開国条約はなかなか勅許せず、周囲の公卿が幕府の金品攻撃で脱落してついに孤立するが、幕府が買ってに調印すると、怒って退位を告げるほどの攘夷家であった。しかし、これは海外異国を知らないためのものであり、妹和宮を降嫁させてからは、義弟家茂(徳川)を可愛がり、幕府を倒そうなどという論には耳をかさなかった。そのため倒幕派の桂小五郎(木戸孝允)などは「玉を替えよう」などといっている。討幕派にとってはうるさい存在で、あったことは事実だ。

 慶応2年12月、天然痘にかかって急死。このときの死に状態が異常だったので毒殺されたという説がいまだにある。ひじょうな大酒家であったという。酒でも飲んでいなければやりきれない日々てあったろう。没時36歳。墓所は京都東山区泉涌寺にある。

 
 ​参考図書 ​​『歴史読本 臨時増刊 幕末維新人物争乱争乱』​​

 

 

天皇の生活

​ 朝廷の「御賄」は10万石で、そのうち3万21石6斗が天皇の日常費だったという。このなかから天皇の食
事代、衣類費、接待費、女官の給金から御所に努めている者の三度の食事代まですべて賄っていたのである。
「御所はとほうもない好いことはございませぬけれども、貧乏で天子様の上がる物がないというようなものではあ
りませぬ。御所はゆっくりいたしております。天子様はなかなか御馳走を上がってござる、宮様、摂家、大臣などに下される御膳なども、なかなか御馳走がございます。もちろん唯今とは比較になりませぬけれども、決して貧乏はしておらめませぬ」という。​

 徳川氏をはじめ薩長土肥や肥後藩、あるいは紀州・尾張など諸大名の官位昇進のおりには「一廉の御礼」が届けられたから、「朝廷は決して御不自由なことはございませぬ」とつけくわえられている。朝廷は小大名程度の経済的基礎しかもっていなかったけれども、こうした官位の任命権をもっていたことが、経済的な余裕をもたらしめる根拠になったようである。​
 天皇の伝統的権威による形式的な官位任命権が、実は朝廷の経済的な実入りをもたらせていたことになる。そして、やがてその権威が幕末の激動のなかで、天皇を政治の渦中に巻き込み、ついには近代天皇制が国家における政治的な絶対的シンボルへとおしあげていったのである。​​​​​​​


参考図書『集英社 日本の歴史 開国と倒幕』田中彰著
  ​​​​​​​​​​​​​​​​​​​
※ 官位の任命権を持っていたことが経済的な余裕をもたらし、その権威が幕末動乱期のなかで、天皇を政治な絶対的なシンボルとしていく要因にもなったようです。

 

 

10万石ってどんな感じかな?
 
大名は石高に応じて、幕府にたいしてお手伝い普請や幕末には江戸湾警備などを行い、財政的にはとても苦しかった。豪商や豪農の献金なしには経済が成り立たない状態でした。

江戸城中大名詰所 (慶応3年)

ランク 詰所名 主な大名
大廊下(おおろうか) 上席 御三家(水戸・紀州・尾張)・御三卿下席 金沢前田102.2万石・福岡黒田52万石など
大広間(おおひろま) 鹿児島島津77万石・仙台伊達家62.5万石・熊本細川54万石等
溜間(たまりのま)  
帝鑑間(ていかんのま)  
柳 間(やなぎのま)  
雁 間(がんのま)  
菊 間(きくのま)  
無 席  

石高ランク (慶応2年)

石 高 藩 数 割合(%)  
1 ~  5万石 166 62  
5 ~ 10万石 46 17  
10 ~ 20万石 32 12 梁川藩、小浜藩、淀藩、二本松藩、棚倉藩、中津藩、大垣藩、松代藩、宇和島藩、富山藩、府中藩、喜連川藩、新発田藩など
20 ~ 50万石 15  
50万石以上  
  266 100  

 1~5万石の大名の数が多く、約62%を占めています。
 江戸藩邸や国元の経費、参勤交代などをかんがえると、10万石の天子様の生活はそれほど貧乏でないようですね。

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