誤った大政奉還の時期
誤った大政奉還の時期
弾薬がない、大砲がたりない、資金がない、問題は山積みであった。これは慶喜が最初の段階で、致命的なミスを犯したことに関連していた。
慶喜が大勢を訪韓すれば、後継者をめぐる権力争いは避けられない。調停役の土佐がどこまで頑張れるのか。しかしすでに坂本竜馬もいなにい以上、幕府と薩長の間に戦闘がおこる可能性は高いとみなければならない。
慶喜がとるべき道は大政奉還の前に、幕府の陸海軍を上京させ、その兵力を展開しながら十分に時間をかけて、大政奉還を検討すべきであった。
それに必要な時間を考えれば、大政奉還の時期は、慶応4年(1868)の4月か5月ごろであるべきであった。
慶喜のい描いた大政奉還のシナリオは、西郷の短刀一本で、土佐がたちどころにくずれた。そこではじめて、おのれの甘さを知った慶喜であったが、もはや、すべてが手遅れだった。政治顧問のフランス公使ロッシュにも事前に連絡していなかった。慶喜の短絡さは、これによってもあきらかである。