宮門クーデーター
討幕の密勅を手にした西郷隆盛に、怖いものはなかった。
目障りだった坂本龍馬も、この世にいない。龍馬よりでだった後藤象二郎も外し、西郷は着々と策を練っていた。
密勅を書いた中山忠能(ただやす)、正親町実愛(さねなる)、中御門経之(つねゆき)は、もあった。これはや自家薬籠中のものだ。あとは天皇の身柄をしっかり確保することだった。
「玉をのがしてはならぬ」玉とは天皇を意味する。
西郷は武力で御所を包囲し、天皇を意のままに動かす手段にでた。これが宮門クーデーターであった。
クーデターの第一の鍵は御所を守る会津藩を、どのようにしてその場から退かせるかであった。これは土佐の小松に担当させた。会津が土佐を頼りにしており、小松のいうことは聞くと判断した。
慶応3年(1867)12月9日夜、クーデターは断行された。この日、会津藩兵はいつものように御所の唐御門の警備についていた。前夜の当直、組頭の小池勝吉が守備隊長の生駒五兵衛に昨夜、御所周辺が騒々しかったと報告した。
そのときである。完全武装の薩摩藩一中隊が唐御門から御台所に転じ、御所のなかに入った。続いて芸州一小隊がきた。これも完全装備だ。勝吉が飛び出して、薩摩兵を追った。
「軍装はなんのためか」
「ご主人が参内いたすゆえ、こうしたまででござる。許可を得ておる」という。勝吉は芸州兵にも問うた。
「薩摩藩から警備の通知があり、出兵致した。なぜかは分からぬ」
と答えた。会津藩は虚をつかれた。これは謀られた、会津兵を襲うつもりだと、生駒は死を覚悟した。そこへ重役の佐川官兵衛がきて、「忍耐せよ」といった。
土佐から手が回ったのである。会津は手も足も出ずに御所を追われた。
参考図書『幕臣たちの誤算』星亮一著より