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歴史ネタ帖

三春藩 化け猫騒動の背景

三春町にあります紫雲寺境内の「はらきりの梅の碑」

 

紫雲寺

 

 

三春町にある「高乾院」です。

 

案内板の脇の階段を上ると藩主の墓がある。

 

庭に咲いていた桜

 

 

三春藩 化け猫騒動の背景

秋田 頼季(あきた よりすえ)は、陸奥三春藩の第4代藩主で、秋田家第6代当主でした。

元禄9年(1696年)、三春藩重臣だった荒木高村の長男として生まれています。高村は荒木氏綱の来孫で、秋田氏の一門(藩祖・秋田実季の外孫)、外祖父季通は実季の甥でした。頼季ははじめ分家の秋田季豊の養子となりました。同家は秋田実季の三男季信を初代とする旗本(500石)でした。

宝永3年(1706)8月29日、秋田季豊の末期養子として、家督を相続しました。季侶と名乗りました。正徳4年(1714)5月7日、将軍徳川家継にお目見えをしています。

正徳5年7月3日、本家の三春藩主秋田輝季の養子となり、養子入りにともない、頼季と改名しました。なお、旗本秋田家は頼季の本家相続により絶家となりました。

正徳5年(1715)6月4日、先代藩主秋田輝季は、嫡男・就季を失い、落胆して政治を荒木高村に一任するようになりました。同年7月3日、頼季は輝季の養子となり、就季の娘岩子を輝季の養女として、正室に迎えました。

同年9月6日、将軍徳川家継にお目見えした。同年12月7日、養父輝季の隠居により、家督を継ぎました。同年12月18日、従五位下主水正に叙任しています。

後に信濃守に改める。養父輝季は享保5年(1720)に死去し、その後のお家騒動は「三春化け猫騒動」の元になったと言われます。

 

お家騒動

先代以来の重臣として、藩主(頼季)の実父としていずれにせよ権力を持つ荒木高村に対し、藩内の反荒木派は激しく対立しました。享保13年(1728)6月、混乱を収めるべく荒木は知行返上と三春藩退去を願うものの、これは重臣らから拒否された。その一方で重臣らは三春藩は荒木一派の弾圧を行いました。重臣らは荒木に対して隠居を迫るものの、荒木は拒否した。しかし翌享保14年、先代藩主輝季の未亡人貞岩院の意向もあり、荒木は蟄居処分となりました。その後、荒木高村の弟の荒木又市の家来渡辺長右衛門が藩命により死刑になったのでした。

渡辺長右衛門の遺族はこの処遇に納得せず、顛末を江戸の幕府に訴えました。

幕府は藩主頼季に事情を問い質したが、幕閣を納得させる釈明はできなかった。幕府は荒木高村ら藩重臣に対しても詰問したが、上記の通り事件時に荒木は蟄居中であり、詳しい情報は持っていなかった。

享保15年3月15日、幕府に相談することなく重臣かつ実父の荒木を蟄居させたことや、充分な調査をせずに渡辺長右衛門を死刑にしたことなどを問題とし、幕府により藩主の頼季は閉門処分を命じられた。同年7月12日、閉門を許されました。

実父の荒木高村に先立って、頼季は寛保3年(1743年)に死去しました。長男の延季のが跡を継ぎました。

 

秋田輝季(てるすえ)

秋田輝季(てるすえ)は、慶安3(1650)年に、父を秋田盛季、母を上野国高崎(現在の群馬県高崎市)藩主安藤重長の娘として誕生しました。
 また、輝季の正室は、若狭国小浜(現在の福井県小浜市)藩主酒井忠直の娘で、忠直の家臣に秋田実季の弟季通(すえみち)の子孫がいましたので、そうした関係から輝季との縁組みが成立したのかもしれません。

さて、輝季が家督相続したのは延宝4(1676)年3月6日で、その治世は父と同じく、藩財政の再建と幕府への奉公につきるものでした。
ところで、輝季の時代には、その後の三春藩を考える上で、三つの重要な出来事がありました。

一つ目は、馬種の改良と売上金の上納制度です。
これ以前の田村郡ではあまり良い馬が成育せず、仙台辺りから良い馬を購入していました。
しかし、輝季時代に仙台より良馬を購入し、これを種馬として馬種の改良が行われ、それが後に「三春駒」として有名になったのです。

二つ目は、譜代大名格への復帰です。
江戸時代の大名が親藩、譜代、外様に分けられることはご存知の方も多いと思いますが、秋田氏は本来外様大名であるはずなのに、初代秋田俊季が将軍家光と又従兄弟にあたるため、俊季は譜代大名並に奉公し、これが秋田氏を譜代大名格にしたのです。
しかし、二代盛季が病弱で譜代並の働きがなかったため、いつのまにか元の外様大名扱いにされ、輝季が藩主になった時も外様として扱われていたわけです。

輝季はこれを嘆き、幕府へいろいろと嘆願した結果、貞享元(1684)年12月30日、幕府より再度譜代大名に命じられたのです。
ただし、これを譜代大名になったとするのは問題があると考えますので、今のところ譜代大名格になったと考えています。
この後、秋田氏歴代藩主が譜代大名格として続いたかを確認するのは困難ですが、江戸城での詰め間が譜代大名たちと同じ部屋だったことから、一応最後まで譜代大名として継続したと考えておきます。

 

輝季時代の出来事として、他の二つにも増して重要だったのが、輝季の後継者問題でした。
この件は、「三春化け猫騒動」としてかたられています。

秋田輝季には、12人の子どもがいました。男の子は7人で、彼らが無事成長していれば後継者問題は起きなかったのです。
 ところが、輝季の子どもは次々と病死し、成人に達した男子は長男広季(ひろすえ)(後就季(なりすえ))ただ一人だけだったのです。しかし、この広季も、父輝季より早く、45歳で亡くなってしまいました。
 また、広季には4人の子どもがおり、うち二人が男子でしたが、これも幼くして亡くなったため、輝季の後継者は一人もいなくなってしまったのです。
 広季死去の時、輝季は65歳くらいでした。これから後継ぎをもうけるのは難しいため、結局養子を得ることにしたのです。

なお、次々と世継ぎの男子が死んだことが、後に「化け猫騒動」という話を生み出す原因になったのですが、これを「伝説」とするのは間違いのようです。

「化け猫騒動」は、佐賀藩で起こった藩主相続問題をモデルにした話ですが、この話も「伝説」ではなく、江戸時代後期に歌舞伎などで上演されて流布したものです。
三春の「化け猫騒動」も、こうした歌舞伎を参考に創作されたもので、なんの根拠もない話だったということです。

輝季の後継者問題は、分家秋田家の当主秋田季侶(すえとも)を養子として迎えることで決着しましたが、この季侶が実は三春藩士荒木玄蕃の子どもだったため、後に藩内を二分する騒動になりました。

秋田頼季(よりすえ)

秋田頼季(よりすえ)は、元禄11(1698)年に生まれました。
父は三春藩士荒木玄蕃高村、母は秋田季通(すえみち)の娘ですから、藩士の家に生まれたとはいえ、秋田実季(さねすえ)の弟の血筋に当たります。
後に、三春藩分家五百石秋田家の養子となり(この頃、名前を季侶(すえとも)とします)、同家を継ぐことで、三春藩後継者の一人になったのです。

正徳5(1715)年6月4日、三代藩主輝季の後継者就季(なりすえ)が病死すると、その後継者問題が起こりましたが、結局頼季が後継者となり、同年9月に輝季の養子となり、三春藩主となったのです。

頼季の時代は、彼が三春藩主直系ではなかっただけに、さまざまな混乱が生じました。
特に、頼季の父荒木高村をめぐって三春藩内で起こった争いごとは、有名な「腹切り梅伝説」とも関連して、この時代を代表する出来事とされたのでした。

頼季藩主就任後の混乱は、「正徳事件」と言われています。
この事件は、頼季と荒木高村派、それに反発する勢力との対立だとされていますが、現在のところ、事件と言うほどの出来事は確認されていません。
ただ、滋野多兵衛の切腹が正徳4年の暮れに起こっているだけです。

滋野の切腹が「腹切り梅伝説」となるのですが、この切腹の理由自体もはっきりしません。
しかし、切腹の年が就季死去の前年ですから、藩主後継者問題とも関係なさそうです。

つまり、この出来事を頼季の藩主就任と関連付けるのは無理と考えられるのです。
以上の点から、「正徳事件」という事件の存在はなく、問題は次の「享保事件」だけと言えるようです。

「享保事件」とは、享保14(1729)年5月、荒木高村が蟄居させられ、同15年に頼季自身も幕府より閉門を命じられた出来事をさします。
この事件の発端は、享保13年6月、荒木が知行を返上し、三春から退去したいと願い出たことによります。

荒木の願いは三春藩主家老たちによって拒否されましたが、一方で家老たちは、荒木の引退をすすめました。
これに反発した荒木が、先の願い出を撤回し、猛然と家老たちに対抗しはじめたのです。
こうして始まった混乱は、やがて頼季の閉門という、三春藩はじまって以来の大事件へと発展しました。

「享保事件」の発端とは、藩主頼季の実父荒木高村は、一旦出した扶持返上の願い出を撤回し、藩重役との対決姿勢を強めましたが、こうした状況に心を痛めたのか、頼季は内密に隠居を考え、縁者にあたる江戸幕府老中安藤信友へ相談したようです。

頼季が相談したためかどうかは分かりませんが、享保14(1727)年、老中安藤重行より荒木高村の隠居、頼季の子民部(後の延季(のぶすえ))の江戸行きの指示が出され、これは三春へも伝えられ、荒木・藩重役がそろった場所で申し渡されました。
この指示に荒木が不快感を示したため、貞巌院(秋田輝季未亡人)の指示もあり、荒木は蟄居させられ、この経緯が幕府にも報告されたのです。

この後、荒木に縁のあった人々が次々と処罰されましたが、死罪になった荒木又市家臣渡辺長右衛門の妻が、こした処罰の不当を幕府へ訴え、事件は幕府法廷へと持ち出されたのでした。

幕府は、荒木玄蕃・又市兄弟を江戸へ呼び寄せ、大目付によって尋問をさせました。
この結果、老中より引退指示をよいことに、荒木を蟄居させたこと、長右衛門死罪に当たっては十分な取り調べをしていないことが明らかとなり、頼季に対し閉門という処分が課せられたのです。
同時に、荒木蟄居に直接関与したとして貞巌院にも処罰が与えられ、荒木へは改めて引退の申し渡しがされ、弟又市へは無罪の判断が下されたのです。

閉門とは、屋敷の門を閉ざし、客を迎えたり出かけたりすることも規制される、大名にとっては重い罰です。
頼季の閉門は、125日間に及び、閉門が解除された際には家臣一同ほっとした様子が記録に残されています。

頼季の死はそれから13年後の寛保3(1743)年6月1日、享年46歳でした。
家臣の家から藩主になったがゆえの、波乱に満ちた一生ということができます。
法名は広運院殿俊徳玄明大居士。
墓所は高乾院にあります。

 

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