亀の前 源頼朝の愛妾
亀の前(かめのまえ、生没年不詳)
亀の前は、時末期から鎌倉時代初期の女性。良橋太郎入道の娘。源頼朝の愛妾
鎌倉時代に成立した『吾妻鏡』によると、亀の前は頼朝の伊豆国の流人暮らしの頃から仕えており、容貌すぐれて柔和な性格で気に入られ、頼朝は寿永元年(1182)の春頃から密かに亀の前を鎌倉に呼び寄せて寵愛していた。
頼朝の正室・北条政子が万寿(後の源頼家)を妊娠中の寿永元年(1182年)6月、日を追って寵愛が増した頼朝は亀の前を小坪(逗子市)の小忠太光家の宅に呼び寄せる。外聞を憚って居拠を遠くに構えたという。
その後、頼朝は亀の前を飯島(逗子市)の伏見広綱の宅へ移して寵愛を続けた。8月12日に出産した後、この事を継母の牧の方から知らされた政子は激怒し、11月10日、牧の方の父・牧宗親に命じて広綱宅を破壊する後妻打ち(後妻打ち(うわなりうち)を行い、大いに恥辱を与えた。亀の前は広綱に連れられ、命からがら鐙摺(葉山町)の大多和義久の宅へ逃れた。
11月12日、怒った頼朝は遊興にことよせて鐙摺に出向き、牧宗親を呼び出して叱責した。宗親は顔を地にこすりつけて平伏したが、怒りの収まらない頼朝は自ら宗親髺を切って辱めた。宗親は泣いて逃亡した。これを知った政子の父北条時政は舅である宗親への仕打ちに怒り、一族を率いて伊豆国へ立ち退いてしまう騒動に発展した。
12月10日、亀の前は小坪の小忠太光家の宅へ移された。亀の前は政子の嫉妬をひどく恐れたが、頼朝の寵愛は深まった。16日、政子の怒りが収まらず、伏見広綱は遠江国へ流罪となった。
この騒動の顛末がどうなったかは、『吾妻鏡』の寿永2年(1183年)が欠文のため追うことができない。亀の前のその後も不明である。
中原光家
鎌倉時代初期の官僚、通称小忠太。流人時代から頼朝に仕え、以仁王の挙兵の後は昔らかの源氏の家来をあつめるため安達盛長の副使として派遣された。石橋山の戦いにも従軍した。頼朝の妾でる亀の前を小坪の自邸に預かった。
伏見広綱
平安時代末期の人。源頼朝の祐筆。伏見冠者藤原広綱と呼ばれる。
伏見氏は本姓は藤原氏で、遠江国佐野郡の豪族、広綱も同郡掛河(静岡県掛川市)の出身。
文筆に秀で、鎌倉に幕府を構えた源頼朝が、朝廷の事に通じているものを探していた所を安田義定の推挙を受け、永寿元年(1182)5月12日、鎌倉に参じて祐筆となった。その直後に頼朝が源義重の娘祥寿姫に宛てた艶書を届ける使いをしている。
寿永元年(1182)11月10日、頼朝の愛妾亀の前を飯島(逗子市)の自邸に匿っていた事で、頼朝の妻の北条政子の怒りを買い、政子の命を承けた牧宗親に邸を破壊された。広綱は亀の前を連れ、命からがら大多和五郎義久(三浦義明の子)の鎧摺(葉山町)の邸に逃れた。12日、頼朝は宗親を伴って鎧摺を訪れ、広綱の事の経緯を聞き、宗親を問いただした。宗親は言葉もなく平伏したが、頼朝は宗親の髺を切って恥辱を与えた。12月16日、広綱は政子の怒りによって遠江国に流罪となった。
牧の方
平安時代末期から鎌倉時代初期の女性。鎌倉幕府の初代執権・北条時政の継室。牧宗親の娘とも、妹ともされる。子は北条政範、平賀朝雅室、稲毛重成室、宇都宮頼綱室、坊門忠清室。
夫・時政とはかなり年齢がはなれていたが、その仲は睦まじかったと言われる。寿永2年(1182)11月、産後の継娘・政子に夫・源頼朝の浮気を伝え、政子が牧の方の父宗親に命じて頼朝の愛妾・亀の前の屋敷を討ち壊させる騒動を引き起こしている。
元久2年(1205)6月、時政による畠山重忠の乱がおこるが、これは時政と牧の方の娘婿で京都守護として京に滞在する平賀朝雅が、重忠の子重保のことを牧の方に讒言し、それを聞いた牧の方が時政に讒訴したためであると言われている。さらに同7月、彼女は時政と共謀して将軍源実朝を殺害し、さらに娘婿の朝雅を新将軍として擁することで幕府の実権を掌握しようと計画した。しかし、この計画を知った北条政子・義時姉弟による反撃をうけて、閏7月20日に時政と共に出家し、その後、義時の手によって伊豆国に流された。朝雅もまた京で討たれている。(牧氏事件)
朝雅の妻だった娘は公家の権中納言・藤原国通に再嫁し、牧の方は時政の死後、京都の娘夫妻の元に身を寄せ、贅沢に暮らしていたという。
嘉禄3年(1227)3月に国通の邸で夫・時政の13回忌を行い、一族を引き連れて諸寺詣を行っている様子が『明月記』に記され、筆者の藤原定家はこの時の牧の方の振る舞いを批判している。
杉橋隆夫は、牧の方の父あるいは兄とされる牧宗親と、平忠盛の継室で平治の乱の際に頼朝の助命を嘆願した池禅尼の兄弟とされる藤原宗親(『尊卑文脈』)は同一人物であるとする説を提示している。