亀です。 土津神社(保科正之墓所) ~亀跌(きふ)~
亀です。
毎日、重い碑を背負っております。
これは、亀跌(きふ)といいます。かめの形に刻んだ碑の台石です。転じて、碑の異称とか。
見るからに、重いものを背に載せて踏ん張っている顔していますね。
土津神社(はにつじんじゃ)は、福島県耶麻郡猪苗代町にある神社です。会津藩初代藩主・保科正之を祀っていいます。
土津神社は延宝3年(1675)、磐梯山山見祢山(みねやま)のに葬られた保科正之の墓所に造営されました。
「土津」(はにつ)という名称は、寛文11年(1671)に保科正之公が吉川惟足より吉川神道の奥義を授けられた際に「土津」の霊神号を送られたことに由来しています。
寛文12年8月11日、正之は重臣と共に見祢山へ登り、磐椅神社へ参拝した。その時にこの地を気に入り、自らの墓所と定めたという。翌年に正之が死去すると、遺言どおりにその地に葬られ、神式の葬儀によって埋葬されました。この時期、江戸幕府は葬式は仏式によるものと定めていたが、吉川惟足が老中稲葉正則と交渉し、神式で執り行う旨の許可をとったのです。
寛文12年(1672)12月18日に正之が死去すると、遺言通り見祢山の麓磐椅神社(いわはしじんじゃ)の西方に葬られました。
延宝3年に墓所の南側約1キロメートルの地に土津神社が造営されたのです。古来の正式に則った神殿造で、日光東照宮と比較されるほどの絢爛豪華な建物だったといいます。
正之は生前、死後は磐梯山の神を祀る磐椅神社の末社となって永遠に神に奉仕したいと望んでいたといいます。そのため、土津神社は磐椅神社の末社となっています。
慶応4年(1868)の戊辰戦争時、母成峠の戦いで会津藩が敗れた後、猪苗代城代高橋権大夫の命で土津神社には火が放たれ、全焼してしまいました。その後、会津藩が斗南藩(現・青森県下北半島)に移封されると、土津神社の御神体も斗南藩に遷されました。
明治4年(1871)の廃藩置県によって斗南藩が廃されると、御神体は猪苗代へ戻り、磐椅神社に祀られました。この後、明治7年(1874)から土津神社の再建が始まり、同13年に完成し、御神体が遷されて現在に至っています。
現在境内には、明治13年年(1880)に再建された社殿と7つの末社、山崎闇斎の撰文で正之の治績を刻んだ高さ7.3mの土津霊神之碑があり、さらに奥の院として正之の墓所があります。
昭和62年(1987)5月12日、会津若松市東山町と耶麻郡猪苗代町に所在する「会津藩主松平家墓所」が国の史跡に指定されました。
神社の維持管理費
正之の葬儀のときに葬儀奉行であった会津藩家老友松勘十郎氏興は、神社の維持管理の方法として、神社の神田を作ってそこからの収益で維持することを考えました。
そして、荒野を切り開いて田を開発するために造られたのが土田堰(はにたぜき)です。
土田堰は長瀬川(酸川の合流地点よりやや北側の辺り)から引水され、磐梯山東麓から土津神社の境内前を通り、大谷川下流にそそぐまでの約17キロメートルの堰で、磐梯山の南麓・猪苗代湖北西部一帯を灌漑しています。
土田堰によって開墾された村は土田新田村と呼ばれました。また、正之の墓と土津神社を守り、祭事を行う人々のために造った集落が土町(はにまち)です。
土町は土津神社の門前に位置し、住民は年貢や賦役を免除されていました。