摺上原の合戦後の猪苗代氏 ~伊達氏史料より~
『地図で訪ねる歴史の舞台』帝国書院より掲載茶色が芦名軍、紫が伊達軍
摺上原の合戦後の猪苗代氏 ~伊達氏の史料より~
猪苗代盛国が、伊達氏に内通して芦名氏に敗因をもたらした人物である。その「功」によって、猪苗代弾正忠盛国は伊達氏の准一家の列に加えられ五千石を賜った。僅か五千石である。父祖伝来の地を失い、長男に背かれ、さらに永年の汚名を被る結果になるのであるが、その報いが五千石であった。しかもその禄高は後になぜか半分に減ぜられている。
猪苗代盛国の長男式部盛胤は、常識的に言えば正当な道を選んだ筈であるのに、伊達氏側の記録では「父に背き当家に来らず」と記されている。
猪苗代盛国は二男(又は三男)の松王丸を後継者とした。盛国の子は三人とする説と四人とする説がある。
松王丸は盛国の後妻の長男で、その松王丸は城中の伊達政宗の面前で元服して諱字を賜って宗国と名乗った。その弟は縫殿盛明である。父盛国は二百石を分け与えたが、盛明には子がなかったようで家系は断絶している。
宗国の子弾正盛次は寛永20年(1643)に伊達忠宗から経界余田60石を賜ったという。この頃からこの猪苗代氏は没落していくようである。
先の五千石の半減の二千五百石については触れられることなく、百石未満の新田開発のことが再三記録されている。この時から15年後の万治元年(1658)5月、伊達綱宗の時に、新田66石6斗を開墾して本禄に加えられている。延宝3年(1675)11月、伊達綱宗の時に21石4斗5升を開墾してその合計が448石5升になったという。
その盛次には子がなかったので、茂庭周防延元の四男を養子にして盛元と名乗らせた。
盛元には二子があった。長男盛茂は天和元年(1681)6月に、88石5升をもらって一家を立てたが、何代か後の子孫盛武は僅か70石しかもらっていなかったらしい。これで盛元は360石になった。
盛元の二男は盛時、その子は主税盛長で、寛保元年(1742)3月に、伊達吉村の旗奉行になった。盛長は一宮流居合術を虎岩八右衛門頼常に、正伝流兵書を舟山仁兵衛頼泰に、信玄流兵書を松木玄道に、当流半弓を早井七郎在衛門伴次に学んで、すべてその皆伝を得たと言う。
盛長には子がなかったので、盛久の子を養子として盛清と名乗らせたという。
伊達氏資料の猪苗代氏 ~伊達世臣伝家譜~
会津会芦名氏の滅亡に大きく係る猪苗代氏について、伊達世臣伝家譜の記述をみると次のようである。
この氏は佐原盛連の長男長門守経連を祖とする。経連は宝治2年(1248)3月、将軍藤原頼嗣に仕えて、猪苗代麻谷荘五千余町を賜って稲苗代氏を称した。
経連には二子があって、長男を長門守平太郎経泰、二男を民部大輔義泰と言う。
義泰の子は阿波守茂泰で、この父子は猪苗代の北麻谷で若干の所領を与えられていた。茂泰の子平蔵ももちろん伊達氏の家臣となり、その子孫阿波は本家の弾正忠盛国と同じく米沢に移り、政宗にも仕えたが、その子孫については不明である。
長門守経泰には三子があって、
長男 長門守盛泰
二男 弾正忠経盛
三男 式部大輔景泰
である。
盛泰の子長門守宗泰には子がなく、経盛の子越後守景盛が宗泰の養子となった。
景盛には二子があって、
長男 相模守祐盛
二男 長門守盛房
と言う。祐盛は主家芦名氏に入ってその血統を伝えたが若死にした。
盛房は猪苗代麻谷に住んだ。建武2年(1335)8月には主家芦名高盛に与して戦ったが敗れた。
盛房の子は弾正盛実、その子は中務大輔経実である。
経実には二子があって
長男 長門守経重
二男 頼母盛久
と言う。
盛久の子は備前守盛興である。祖父経実はこの盛興に若干の土地を与えて別家を立てさせた。
宗家の弾正忠盛国が米沢に移る時、それに先んじて伊達氏に仕えたがその子孫については不明である。一説によれば連歌師猪苗代兼誼はこの家系かと言う。
経重の子は左衛門大夫経元でああるが、子がなかったので、芦名遠江守盛詮の二男を養子として盛清と名乗らせた。
しかし盛詮の子は芦名盛氏の曾祖父の時代にあたり、時代的に合わない。
葦名宗家副家略系譜にも芦名盛詮の子は四人記されているが、二男以下は荒井盛信、富田為兼、平田盛行の三人で、芦名氏から猪苗代氏の養子になった人物については記述がない。葦名氏から養子を迎えたとすることで家格を誇示する意図があるように考えられる。
その盛清の子が弾正忠盛国で、伊達氏に内通して芦名氏に敗因をもたらした人物である。その「功」によって、猪苗代弾正忠盛国は伊達氏の准一家の列に加えられ五千石を賜った。僅か五千石である。父祖伝来の地を失い、長男に背かれ、さらに永年の汚名を被る結果になるのであるが、その報いが五千石であった。盛国に悔恨がなかったとはどうしても言えないであろう。しかもその禄高は後になぜか半分に減ぜられている。
猪苗代盛国の長男式部盛胤は、常識的に言えば正当な道を選んだ筈であるのに、伊達氏側の記録では「父に背き当家に来らず」と記されている。これも勝者の記録であろう。
猪苗代盛国は二男(又は三男)の松王丸を後継者とした。盛国の子は三人とする説と四人とする説がある。
ここで言う二男松王丸は盛国の後妻の長男で、四人説を採れば三男である。その松王丸は城中の伊達政宗の面前で元服して諱字を賜って宗国と名乗った。
その弟は縫殿盛明である。父盛国は二百石を分け与えたが、盛明には子がなかったようで家系は断絶した。
宗国の子弾正盛次は寛永20年(1643)に伊達忠宗から経界余田60石を賜ったという。この頃からこの猪苗代氏は没落していくようである。
先の五千石の半減の二千五百石については触れられることなく、百石未満の新田開発のことが再三記録されている。
この時から15年後の万治元年(1658)5月、伊達綱宗の時に、新田66石6斗を開墾して本禄に加えられている。しかし伊達氏の准一家の家格としては微々たるものであろう。
延宝3年(1675)11月、伊達綱宗の時に21石4斗5升を開墾してその合計が448石5升になったという。
その盛次には子がなかったので、茂庭周防延元の四男を養子にして盛元と名乗らせた。
盛元には二子があった。長男盛茂は天和元年(1681)6月に、88石5升をもらって一家を立てたが、何代か後の子孫盛武は僅か70石しかもらっていなかったらしい。これで盛元は360石になった。それにしても会津に在った頃の猪苗代氏を思えばまことに今昔の感が強い。
盛元の二男は盛時、その子は主税盛長で、寛保元年(1742)3月に、伊達吉村の旗奉行になった。盛長は一宮流居合術を虎岩八右衛門頼常に、正伝流兵書を舟山仁兵衛頼泰に、信玄流兵書を松木玄道に、当流半弓を早井七郎在衛門伴次に学んで、すべてその皆伝を得たと言う。
盛長には子がなかったので、盛久の子を養子として盛清と名乗らせた。