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  1. 猪苗代城の妖怪・亀姫
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歴史ネタ帖

徳川家康の長女 亀姫 

徳川家康の長女 亀姫 

 徳川家康の長女亀姫は、永禄3年6月4日、駿府でうまれました。元亀4年(1573)ごろに家康が奥三河における武田氏の勢力をけん制するため奥平氏の帰順を試みました。この時、織田信長の提案で亀姫と新城城主奥平信昌の婚約が提示条件の一つとなり、長篠の戦いをめぐる戦功への褒美として天正4年(1576)、信昌へ嫁ぎました。

 

亀姫は、生涯信昌に一人も側室を置かせず、自身で4人の男子(家昌・家治・忠政・忠明)と1女(大久保忠常室)を儲けています。

慶長5年(1600)の関ケ原の戦いの勝利により、慶長6年(1601)夫・信昌が美濃加納10万石に封じられ、三男忠政共々加納に移ったことから、加納御前・加納の方と呼ばれるようになりました。

やがて忠政、宇都宮藩の嫡男家昌・夫の信昌と、あいつぐ夫子らの死去を受けて、剃髪し盛徳院と号し、幼くして藩主となった孫たちの後見役となりました。

寛永2年(1625)、加納において66歳で亡くなりました。戒名は盛徳院殿香林慈雲大姉、墓所は光国寺(岐阜県岐阜市)、法蔵寺(愛知県岡崎市)、大善寺(愛知県新城市)にあります。4人いた妹たちには全て先立たれています。

 

宇都宮城釣天井事件

亀姫を宇都宮城釣天井事件の黒幕とする説があります。

嫡男家昌の遺児で、わずか7歳で宇都宮藩主となった孫の奥平忠昌は、12歳のときに下総古河藩に転封となり、忠昌の替わりに宇都宮へ入封したのは本田忠純でした。亀姫は、忠純を快く思っていませんでした。その理由は、大久保忠隣失脚事件があります。

 

 信昌と亀姫夫妻の一人娘が、大久保忠隣の嫡子・大久保忠常に嫁いでいたため、大久保氏と奥平氏の関係は緊密でした。ところが、娘婿忠常が早世し、忠隣は不可解な改易となり、心を痛めていました。亀姫は、正純とその父・本田正信が奸計で忠隣を陥れたとみなしたのです。さらに、忠昌の転封にも我慢がならなかったようです。少年ゆえの移封であれば忠昌相続の7歳の時点で行うべきところを、12歳まで成長した後の国替えだったからです。しかも、それまでの奥平家が10万石であったのに、正純になったとたん15万石というのも承服しかねたようです。

 

 そこで、異母弟の第2代将軍徳川秀忠に、日光へ参拝するため宇都宮城へ宿泊する際、正純には湯殿に釣天井を仕掛け将軍を暗殺するという計画がある、と漏らしたとされます。釣天井自体は事実無根であったが、正純は配流されるとととなり、その後は、忠昌が再び宇都宮藩へ配されるというものでした。

 

下総古河への国替えの逸話

 国替えの引越しの時には、本来私物以外はそのまま新入封の家中のために残して立ち去るように法度で定められているところを、奥平家は障子・襖・畳までも撤去した。さらに、邸内の竹木まで掘り起こし、一切を持ち去ろうとした。これを聞きつけた正純の家臣が、慌てて駆けつけて国境で呼び止め、その非を咎めたため返還したという。

 

徳川家康の長女亀姫のお母さんは、築山殿

築山殿は、戦国時代から安土桃山時代の女性です。天正7年(1579)8月29日(新暦で9月19日)に亡くなりました。

 徳川家康の正室で、名は未詳です。築山殿、築山御前、または駿河御前ともいわれます。築山の由来は、岡崎の地名によります。

 父は関口親永(氏純とも)、母は今川義元の伯母とも妹ともいわれ、もし妹ならば築山殿は義元の姪にあたります。夫の徳川家康と同じ歳とする説、2歳年上とする説、12歳近く年上の1廻り歳上だったとする説があります。

 『井伊年譜』や『系図纂要』『井家粗覧』の系図によると井伊直平の孫娘で、先に今川義元の側室となり、後にその養妹として親永に嫁したという。その場合、井伊直盛はいとこ、井伊直虎は従姪になります。

 近年の研究によると、関口親永と今川氏との婚姻関係そのものの存在を否定する説(親永の実兄である瀬名氏俊が義元の姉を妻にしたのを誤認したとする)もありますが、そもそも関口氏自体が御一家衆と呼ばれる今川氏一門と位置づけられる家柄であった。家康(当時は松平元信・その後松平元康に改名)が今川氏一門の娘婿になるということは今川氏一門に准じる地位が与えられたことを意味していた。

 弘治3年(1557)正月15日、今川家の人質として駿府にいた松平元信(後の徳川家康)と結婚します。永禄2年(1559)に松平信康を、同3年(1560)に亀姫を生んでいます。

 

 永禄3年(1560)5月19日の桶狭間の戦いで、伯父の今川義元が討たれ、元康(元信から改名、後の家康)は岡崎に帰還することとなりました。永禄5年(1562)3月、父の親永は娘婿である家康(元康から改名)が織田信長と同盟を結んだ事で今川氏真の怒りを買い、正室と共に自害しています。

 

築山殿は、石川数正が駿河に来て今川氏真を説得し、鵜殿氏長・鵜殿氏次と築山殿母子との人質交換をすることで、駿河の今川舘から子供たちと共に家康の根拠である岡崎に移りました。

しかし、岡崎城内ではなく城外の西岸寺に居住したことや、『家忠日記』における築山殿を示す敬称が正室を表す「御前さま」ではなく、「信康御母さま」であることなどから、今川との手切れにあたって離縁されたともみられています。

 

永禄10年(1567)、息子の信康と織田信長の長女・徳姫が9歳同士で結婚します。元亀元年(1570)に信康が嫡子として岡崎城に移された際、嫡子生母として岡崎城に入ることとなります。

 

家康は遠江浜松に移りましたが、築山殿は後継ぎの信康とともに岡崎にとどまりました。徳姫は天正4年(1576)には登久姫を、天正5年(1577)には熊姫を産んだ。しかし、徳姫がいつまでたつても信康の息子を産まないため、心配した築山殿は、元武田家の家臣で後に徳川家の家臣となっていた浅原昌時の娘および日向時昌の娘など部屋子をしていた女性を、信康の側室に迎えさせた。(『系図纂要』)

 

天正7年(1759)、徳姫は、築山殿が篤姫に関する讒言を信康にしたこと、築山殿と唐人医師・減敬との密通があったこと、武田家との内通があったことなど、12か条からなる訴状を信長に送り、これにより信長が家康に信康の処刑を命じたとされる。

 

家康の上意により妻の処分が伝えられ、築山殿は8月29日に遠江国敷知郡の佐鳴湖に近い小藪村(浜松市中区冨塚)で徳川の将来を器具した岡本時仲と中野重政によって自害をせまられ、自害を拒んだことから独断によって首を切られて殺害された。検使役は石川義房がつとめて首は安土城の信長の元に届けられた。信康は9月15日に二俣城で自害した。遺体は浜松市中区沢の高松山西来禅院に葬られた。首塚が岡崎市の祐傳寺、後に天保年間の頃八柱神社に移された。法名は西来院殿間政岩秀貞大姉。

 

築山殿殺害の謎

 この通説には疑問点も多く、桑田忠親は「確かな文献には、築山殿が武田と内通したとか、唐人の減敬と密通したとか、信康を共犯にしたとかいうような記事は全く見当たらない。これは彼女が冤罪であった証拠と考えられる。としたうえで、処刑に際して正当な理由がみつからなかったから、作り上げられた理由とし、家康が築山殿を暗殺したのは、「信康の死を知った彼女が狂乱して事を起こすのを未然に防ぐためだった」とする。また「母子がそろって嫁であり妻である徳姫とおこしたいさかいそのものを家康が問題視した。ぬきさしならないところまで発展させてしまったことに対する責任を、明確にさせたかった」とする指摘もある。近年では築山殿の殺害と信康の切腹は、家康・信康父子の対立が原因とする説もだされている。

 結婚当初良好であつた信康夫婦の仲は、2人の姫をもうけた後に不和となっていたとみられ、当時の書状や日記からみる日程や行動から、家康が2人の仲の修復を試みたとの推測や、この頃鷹狩として岡崎まできていた信長も、娘夫婦の不和に対し働きかけがあったとの考察もあり、信康の家臣団が、信康をかつぎ家康に叛意を抱くもの・信康に添っているが家康にたいしても忠実であるもの・器量を危ぶみ信康に反感を抱くものなどに割れていたことが混乱と粛清に向ったとする説もある。

 

後世成立史料における評価

『玉輿記』 「生得悪質、嫉妬深き御人也」

『柳営婦人伝』 「無数の悪質、嫉妬深き婦人也」

『武徳編年集成』 「その心、偏僻邪嫉の害甚し」

『改正三河後風土記』 「凶悍にてもの妬み深くましまし」、唐人医師の減敬密通していたとされる。

 

姫路城主 池田光政と南総里見八犬伝

 

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