大阪城の築城
大阪城の築城
柴田勝家をほろばした年(小牧・長久手の戦いの前年)、秀吉は大阪・石山の地に壮大な城を築きはじめた。秀吉は、主君信長が安土城を築いたのにならって大坂城を築き、ここを天下統一の拠点にしようとしたのである。同時にそれは、世の中の人々を驚かせるような城を築くことによって、自分の力の強さを天下に示そうとするものでもあった。そうすることによって、この後の天下統一の仕事をいっそうやりやすくしようとも考えたのだろう。それだけに、工事のにぎやかさ、はなばなしさは、たとえようもないほどであった。周囲約四キロの広大な敷地の中に、はじめは毎日三万人、やがて六万人の人夫が集められて働く。そこへまず運びこまれたのが、建物の土台や石垣を築くために必要な石材と、おびただしい量の材木である。
宣教師ルイス・フロイスは、その様子について、つぎのような記録をのこしている。「こんなにたくさんの石を集めたことに、驚かない者はいない。この石は、大名たちが、収入(石高)に応じて、毎日石を珍だ船を何そうもることを命じられて、おくってきたものだ。
そのため、淀川には毎日石を積んだ船が千そうも、それ以上もはいってくる。船から石を陸揚げする仕事は規則正しく行われ、ほかの船の意志をひとつでも盗んで自分のものにする者があると、すぐに首を斬られてしまう。
また、大名たちが、割り当てられた人数を出さなかったり、決められたことを守らなかったりすると、その領地を取り上げられてしまうほどだ。」
船に積めないような大石は、水中につるし、筏などに結び付けて引っ張ってきたらしい。しかし、海上はるかに、なんとか石を運んできても、今度は陸上を運搬する仕事が残っている。特に大石の場合は、何百人という人夫がとりついて、「えい、えい」と掛け声をかけながら綱を石のである。それを、陣羽織をつけたいかめしい武士が、石の上から力いっぱい指図をする。このような光景が、あとからあとから続くのだから、見物人も多い。すると大名たちも、見物人の評判を高めようとして、いっそうはでな石引きをするようになる。まるで、お祭りさわぎのようなにぎやかさであった。
石の運搬一つとってもこのようであるのに、築城のためには、まだまだたくさんの材料がいる。それらのものが各地から運ばれ、組み立てられていくのであるから、大阪の内外がたとえようもないほどのにぎやかさであったのは、当然のことだ。
大坂築城のためには、秀吉の命をうけた三十ケ国の大名が力を尽くしたというのが、秀吉はこの工事の様子を見ながら、「天下はわがもの」という感じをいっそう強くもったのに違いない。大坂城は、およそ二年後にほぼ完成した。「天下に勢いを示す」というねらいももっていただけに、その豪華さに、訪れる人はただ驚くばかりであった。本丸にそびえる八層の天守閣に登ると、遠く六甲・生駒・葛城・金剛などの山々が、手にとるように見える。
眼下に広がる大阪湾には、全国各地から集まった船がむらがっていた。もちろん城を中心に広がる城下町のながめもすばらしい。天守閣はもちろんのこと、城の中の建物には、ふんだんに金・銀・緞子など貴重な材料がつかれれていた。秀吉の寝室は、寝台・室内のちょうどなどことごとく黄金色に輝きわたるという有様だったといいう。
黄金の茶室というのもできていた。三畳敷きくらいの広さだが、天井・壁・柱・障子など、すべてが黄金でできていて、持ち運びもできるという茶室である。まさに大阪城は、天下人としての秀吉の力を、最もよくあらわしたものだったということができよう。
※ 大阪城の図
大坂城がつくられたところは、北・東・西の三方を河川や低湿地に囲まれた台地上で、「天造之堅固」といわれたような要害の地であった。しかし南方は、比較的なだらかに平地に続いている。この方面の守りを固めるために、三の丸・惣堀などがつくられた。しかし後の大坂冬の陣後にはこれらの堀が埋められ、裸城同然になってしまった。