妖怪の概念 ~怪異なコトが妖怪の仕業とされる~
妖怪概念とは「モノ化するコト」
京極夏彦は『妖怪の理、妖怪の檻』で、妖怪概念とは「モノ化するコト」である、と言っている。
怪異な「コト」が、その現象を引き起こす「モノ」の仕業とされ、そのモノが現実に存在するキャラクターであるかのように理解されて伝承されていくメカニズムを、京極は「ぬかりべ」を例に挙げて解説している。
「夜道で前に進めなくなる」という怪異現象が「ぬりかべ」と名付けられ、繰り返されるうちに、まるで「ぬりかべ」という妖怪存在<モノ>が存在するかのように話されるようになっていく。
そうして出来上がったのがわれわれのイメージする「妖怪」である、と京極はいう。
世間話で話される怪異現象は、「道に迷った」「子供がおぼれた」「山で事故に遭った」「病が続いた」などの事件や、「寒気」「ぞわぞわ」「むずむず」といった感覚、「音」ゃ「声」、「人影」の目撃など不確かな「名付けざるコト」であることがほとんどで、妖怪は姿を現さないことのほうが多い。
そうして、その怪異な現象<コト>は妖怪という存在<モノ>が起こした出来事だと、事件が終わったあとに「解釈」されるのである。
「妖怪」となる以前の「現象」そのものが話される。
これが<口承>の中の妖怪の現れ方なのだ。
「お化けは死なない」 まとめのまとめ
世間話で話されるのは主に怪異=コトであり、妖怪=モノではない。体験というコトが記号化されてモノとなる、つまり「怪異現象」が世間話としてはなされるうちにある存在のイメージが生成され、共同体での共通理解を得て「妖怪」となる。
「妖怪」は、<口承>の体験が純化され、<常識>になったものだといえる。
日本民俗学は妖怪を「俗信」として研究してきた。
「俗信」とは信仰的な<常識>だと言い換えることも可能である。
はなされるのは事件であり、妖怪は語られない。
話されない。
事件を解釈する民俗知(=常識)として妖怪はあったのだ。
昔話や伝説に奇抜な妖怪が登場しない理由もここにある。
昔話や伝説は予定調和を保った説話である。その中のすべてのものは<常識>の範疇になければならない。
そうした<常識>のデータベースが、民俗学の対象とする「民俗」といえるだろう。
そして既存の「妖怪」では対処できないコトが起きたり、既存の妖怪が繰り返しの出現や文芸化でそのリアリティを失ったとき、また新たな妖怪の生成が行われるのである。
その一つとして、現在の「学校の怪談」や「都市伝説」や「実話怪談」があるのだろう。
「お化けは死なない」とは、こういうことなのだ。
妖怪は<口承>から生まれ、妖怪が<口承>を作る。
これが結論である。結論としておこう。
その怪異な現象<コト>は妖怪という存在<モノ>が起こした出来事だと、事件が終わったあとに「解釈」される。
「解釈」されるコト・モノ。これに、当てはめると、すべてが解釈される。
いいこと聞いたなぁ~☆彡