藤原仲麻呂の全盛と没落
藤原仲麻呂の全盛と没落
橘奈良麻呂をはじめ、反対派の皇族や有力貴族を押さえつけた仲麻呂は、前にもまして、思うままのふるまいをするようになった。まず758年(天平宝字2)には、皇太子大炊王(おおいのおう)が即位して、淳仁天皇となった。
天王の后は仲麻呂と縁がふかかったから、おそらく仲麻呂が計画して、大炊王の即位を強引にすすめたのだろう。
天王から藤原恵美押勝(恵美押勝)の名を与えられた仲麻呂には、さらに次のような特権があたえられた。
◎功封3千戸、功田百町をあたえ、これを子孫まで代々伝えることを許す。
◎自由に貨幣を鋳造してもよい。
◎「恵美押勝」という印を、公印として使ってもよい。
このほうにも、特権が与えられたのであるが、これは仲麻呂の権力を天皇と同じくらいまで高めるのであった。
例えば、それまで貨幣を自由に鋳造できるのは天皇だけであったが、これを許されたことにより、仲麻呂は、
必要なときに必要なだけの貨幣をつくって、自由に使ってもよいわけである。
また、「恵美押勝」を公印として使えるということは、仲麻呂個人の命令であっても、政府の命令と同じにあつかえるということであり、中央の役人も地方の役人も、仲麻呂の思うままに動かすことができることを意味している。
さらに仲麻呂は、760年には、大師、つまり太政大臣になった。
朝廷の役人として、最高位にまでのぼったのである。
その仲麻呂も、自分のことだけを考え民衆の疲弊に目をつむっていたわけではなかった。
彼なりの政治改革もこころざしていたのである。
◎税を軽くする・・・
7578月、駿河国(静岡県)でまことにめでたいことがあったという理由で、
(1)租・庸・調なかばを免除する。
(2)60日の雑徭を、半分の30日に減らす、
(3)庸・調を運ぶ人たちには、食糧と医 薬を支給する。
(4)東国から防人をとることを中止する、などのことをした。
「めでたい出来事」というのは、こしらえごとらしいのだが、儒学の教えを学んでいた仲麻呂は、その教えに従って、人民の苦しみを除こうと考え、このような改革をしたのだろうといわれている。
◎問民苦使を諸国につかわす・・・
問民苦使とは、諸国をまわり、「民苦(人民の苦しみ)を調べてくる役人をいう。仲麻呂は、758年正月に、この問民苦使を派遣し、7月から9月にかけては、その報告にもとづいて、政治のしかたを変えたりしている。
◎政治改革の意見を求める・・・
759年5月、仲麻呂は、五位以上の貴族と、おもだった僧に命じて、政治を改めることについての意見を出させ、そのうち、もっともだと思われることについては、早速とりあげて実行した。
こうして国内の政治に力を入れる一方で、仲麻呂は、759年から新羅征討の計画を進めるようになった。
藤原仲麻呂の全盛と没落 2
このころ、実は、日本と新羅との仲がしだいに悪くなり、しばしば争いが起ったのである。例えば、732年に新羅は、「これからは日本への貢物を献上する回数を少なくしたい」と申しいれてきた。この申し入れは、日本の朝廷にとって、受け入れられないものであった。むしろ、「とんでもないことだ。新羅は昔から、わが国に対して家来のように使えてきた国ではないか。その新羅が、勝手なことをいうのはけしからん」と、息まく貴族も多かった。
一方、日本は、朝鮮半島北部に勢いを広げていた「渤海」という国と国交を結ぶようになっていた。その渤海は、日本の協力をえて、新羅に対抗しようとしていた。こうして、「新羅うつべし」という意見が、急にたかまっていたのであるが、その意見は、ただちには実行されなかった。新羅の後押しをしている唐の力がこわかったからである。しかし、755年、その唐に大事件が起こり、国内が大混乱におちいった。いわゆる安禄山の乱である。
仲麻呂は、この機会を逃さなかった。そして759年から三か年計画で、新羅遠征の準備を始めた。この間に500艘の船をつくり、五万人余りの兵士を運べるようにする。もちろん、船をあやつる15000人の水夫も用意するし、新羅を占領したときのための通訳までも養成するという計画であった。これだけの計画をおし進めることができたということも、仲麻呂がいかに強大な権力を握っていたかを示すものとみてよいだろう。しかし、新羅遠征は、実現されなかった。というより、760年に光明皇太后がなくなるとともに、仲麻呂の権力は、ガラガラとくずれ落ちてしまったのである。
仲麻呂にとって、光明皇太后は最大のうしろだてであった。皇太后は、かげひなたに、仲麻呂をかばい、励ましてきた。ところが、その光明皇太后がなくなると、仲麻呂の強引なやり方への反感の声が急に高まってきた。さらに、孝謙太上天皇との仲も旧に悪くなった。
このころ孝謙太上天皇は、弓削道鏡という僧を信頼し、高い位をあたえたりしたが、これも、その重要な原因となっていたのである。こうなっては、新羅遠征どころではない。仲麻呂は兵士を集め、反対派の貴族に対抗しようとした。しかし、くずれ始めた勢いは、到底盛り返せるものではなかった。ついに仲麻呂は、琵琶湖のほとりでとらえられ、首をはねられたのである。また仲麻呂のたてた淳仁天皇も、淡路島へ流され、ここでさびしく世をさった。
※ 安禄山の乱
中国(唐)で安禄山の乱(安禄山と史思明による反乱・安史の乱)がおこったのは、755年11月であった。そして、この乱の様子が日本に詳しく伝えられたのは、758年のことであったらしい。この年、渤海に使いに行った小野田守が帰国し、次のように報告したのである。「唐では、天宝14載11月に安禄山が反乱をお越し、自ら大燕聖武皇帝と名乗り、年号も聖武と改めました。さらに洛陽の町を占領したので、玄宗皇帝は大軍を送ってこれを攻めました。ところが、安禄山はこの軍を打ち破り、さらに長安の都まで攻め寄せる有様です。とうとう玄宗皇帝は、位を皇太子に譲ってしまいました」この後も、安禄山の乱についての知らせは届いた。そして、そのすべてが「唐には、もう昔ほどの力はない」と伝えてきたのである。この安禄山の乱がおさまったのは、763年であった。
※淳仁天皇(732~765年)
結婚せずに子供のいなかった孝謙天皇は、758年舎人親王の第七皇子だった大炊王に位を譲った。淳仁天皇である。淳仁天皇が皇太子から天皇になるについては、藤原仲麻呂の後ろだてが大きな力になった。仲麻呂の縁者が淳仁天皇の妃だったことが、2人を結びつけたのだろう。淳仁天皇は、藤原仲麻呂を重用して、官名を唐風に改めるなどの政治改革をおこなった。しかし、やがて孝謙上皇が道鏡を重用して政治を左右するようになると、不満をもった仲麻呂は反乱をおこしたが、逆に破れて殺されてしまった。淳仁天皇は、この反乱に加担したということで退位させられて淡路島に流され、そこで死んだ。
※恵美押勝
藤原仲麻呂は、758年淳仁天皇から恵美押勝の名を賜った。
これは「汎く恵むの美は、これより美なるはなし」という漢詩から恵美の2字をとり、「暴を禁じ強に勝ち、戈を止めて乱をしずむ」という漢詩の意味から押勝という字をとったものである。