西郷の罠
西郷の罠
薩摩の西郷は、じっと次の策を練った。
西郷に第三の道はなかった。あるのはただひとつ、討幕だった。将軍慶喜の首をとることだった。そのために薩摩を討幕で固めることが急務だった。
国元は必ずしも討幕一色ではなかった。
西郷が考えた秘策は天皇の密勅だった。
慶喜を討てと天皇にいわせることである。孝明天皇は幕府や会津よりであり、こうした密勅はありえなかった。しかしその天皇は突然、薨御され、もうこの世にないない。幼帝はまだ少年である。岩倉具視がなかに入って、密勅の降下工作が進められた。
はやい話が偽造である。これさえあれば国元は動き、他藩も動くだろう。工作は夜を徹して行われた。見通しがたったとき、西郷は初めて安堵した。
勝利の方程式が見えてきたのである。
政権の座をおりた慶喜はただの一大名にすぎない。これまでの罪状を読み上げて、一気に全てを奪い取る謀略が成った。慶喜は不用意にも罠に落ちた。
そして一つ目の悲劇が起こった。
慶応3年(1867)11月15日、土佐藩中岡慎太郎は川原通りにある龍馬の下宿、近江屋に向った。この日、龍馬は風邪ぎみで伏せっていた。龍馬は、「ほたえな」(土佐の方言で、うるさいの意)と叫んだ。
龍馬は応戦する暇もなく前額部を割られ、即死に近かった。中岡も頭をやられ、翌々日息を引き取った。龍馬は結局、明治維新をみることなく、この世を去った。
犯人は誰か。
明治のころは京都見廻組説が圧倒的に有力だった。組員の今井信郎(のぶお)が箱館戦争のあとに拘束され、殺したと自供した。しかし物的証拠はなく、異論もあった。昨今浮上したのは薩摩黒幕説である。
この時期、幕府および会津藩は龍馬に他藩とのパイプ役を期待した。とくに会津藩は土佐藩との関係を重視しており、むしろ龍馬を擁護する立場にあった。
龍馬が煙たい人物、それは誰だろう。西郷、大久保、木戸孝允らであった。そこに疑惑の目が向けられた。考えただけでも、その非常さに背筋が凍る。
大政奉還から鳥羽伏見の戦闘に至る2カ月間は、今日もなお深い闇のなかにある。
幕府と薩長が直接対峙した大成奉還の勝敗は、薩長有利でスタートした。
『幕臣たちの誤算』星亮一著より
個人的には、土佐藩邸近くの宿であったこと、知りすぎていたこと、「ほたえな」と叫んだこと、やはり身近なところに一番の「罠と危険があった」ということだと思う。