猪苗代城(亀ケ城) ~野口英世博士の想い出の場所~
猪苗代城入り口風景
奥州征伐の功績により会津の地を与えられた佐原氏の一族である猪苗代氏の居城でしたが、江戸時代には若松城(鶴ケ城)の出城ともなっていました。この城は清作(野口英世博士)が通っていた猪苗代尋常高等小学校のすぐ近くでしたので子供たちの遊び場になっていました。
上の二ノ廓にはアメリカから寄贈された野口英世博士の像があります。(看板より)
近世になると、会津城の出城になっていた亀ケ城
こちらが、猪苗代城の現在の様子です。
5年ほど前に訪ねました。
また、訪ねたいですね。
下の写真が、アメリカから寄贈された野口博士の銅像です。
亀姫様の伝説を知らないと思いますが、亀姫様が喜びそうです。
全身像があれば、よかったかな。
野口英世博士は、楊枝峠を通り上京したのか。
楊枝峠(中山峠)
楊枝峠の旧記
新編会津風土記によると、「楊枝村は蒲生氏郷が会津に来た時、壺下村と中山村の間に人家がなく往来する人々が難儀しているので、慶長2年(1613)に壺下村の東26町倉手山のふもとにこの村を開き、鉄砲二丁をあづけてき、50石の年貢を免除し出陣の時、京都あるいは江戸へ上る時は必ず百姓2人を足軽にして連れてった。またもと楊子柳村と云ったが、後に柳の字をとって楊子村とした。若松から東北7里33町の所にあって二本松街道の駅所で、村に掟、条目の制札がある。関脇村駅から32町18間、この村の駅所に来て、ここから1里6町、中山村の駅所に行く、村の東三町に一里塚がある。」と記している。
楊枝峠の伝説
熱海町の横川にある帳付神社の縁起によると、昔々久安年中(1145-1150)頃、ある皇子が死罪になるべきところを、罪一等を減じ遠流(おんる)に定められた。流される国の名は定められず、都、京都から東へ行って500番目の川の外へ流せとのことで、泣く泣く東路を下られた。この時の警護の武士の首領が非常に忠実な人で、皇子をいたわり、道筋の川々を残らず小さ小堀でさえ川の数に入れて帳面に記し、日数を経て安積郡高倉村という安達郡仁井田村の境の川に来てようやく500の数となった。そこで警護の武士は仁井田村の端郷五百川(横川)の里に仮の宮を建て皇子を住まわせたのである。
帳付神社の御神体は、警護の武士の首領が京から膚身はなさず祭りながら持って参った猿田彦の大神である。このように無事に皇子をここまでお供できたのは、膚身はなさず信心して参った猿田彦の大神の御恵みであると警護の首領は考えて、猿田彦の大神が伊勢の五十鈴川の川上に祀られている故事にならって、五百川の上に祀り神のご恩に報い奉り、併せて皇子の守り神になそうと川上わぼり奥深く尋ねたところ、中山の峠の頂上に清い清水がわいていたので、これこそ神社の川の源であるとこの清水にみそぎして神を祭ったので、この清水を「街(ちまた)の清水」と名付けたのである。また一名「五十鈴の清水」ともいっている。また帳附神社というのは、警護の武士の首領が川の数々を帳に付けて来ており、帳を付けて来た武士の首領が祭った神社なのでこの名がある。
また「街の清水」というのは、猿田彦の神が「天の八街(やちまた)」にににぎの尊を迎い奉ったので、「街の神」ともいわれていることろころからこの名をつけた(原文は天保15年(1844)9月、横川村長67歳の安田喜覚謹書とある)。
この村の鎮守の神は、「神明明神」といい、伊勢の皇太神社を祭った神社で、峠を西に下って4,50間、右側(山側)に石の祠がある。これが昔祭られた神明明神などで、伊勢にちなみ、「五十鈴の清水」と名付け、西へ流れる流れを「五十鈴川」といっている。
この伝説の「街の清水」は、本峠の頂上わき、5尺4方程のひろさで水は西と東にながれていたが、送電線鉄塔建設のとき埋められ、現在は埋められたその土の下から東と西へ清水がわき出て、昔通り五百川の水源なり、五十鈴川の水源となって流れている。