源頼朝と鎌倉幕府
疑い深かった頼朝
弟義経を滅ぼした頼朝は、猜疑心の強い人だったらしい。平氏追討の総大将をつとめたもう一人の弟範頼も、この猜疑心の犠牲になった。範頼は義経の死後、頼朝から疑惑をもたれないようにと、さまざまに腐心したが、伊豆の修禅寺に幽閉され殺された。殺されたのは肉親ばかりではない。甲斐源氏の一族で平氏追討の功績のあった安田義定も、謀反の疑いをもたれて殺された。さらには、上総の大豪族で、頼朝の旗揚げに贈れて参加し、頼朝から強い叱責を受けた上総介広常も、そのあくの強い性格が災いしてか、頼朝によって暗殺されている。
征夷大将軍 源頼朝
源頼朝が鎌倉を本拠地にしたのは、1180年(治承4)のこと、つまり平氏打倒の兵をあげた年のことである。この年、石橋山の戦いでやぶれた頼朝は、安房国(千葉県)へわたつて再び勢いを盛り返し、相模国(神奈川県)へすすんできたわけであるが、このとき、三浦半島に勢力をもっていた三浦氏のすすめがあって、鎌倉入りしたのだといわれている。
この鎌倉は、もともと源氏ゆかりの深い土地であって。頼朝の父の義朝は、若いころの鎌倉に住んで付近の武士を従えている。また、頼朝の先祖にたる義頼は、1063年(康平6)、前九年の役がおわったころ、ここに京都の岩清水八幡宮を移して祭った。そして八幡宮はその後、源氏の守り神としてとうとばれてきた。
このような理由から頼朝は、ここに腰を落ち着けて平氏打倒の戦いを続けるとともに、武家の力を伸ばすことに専心することにしたのだろう。
もともと鎌倉は、都の朱雀大路になそせえて若宮大路を通し、これを中心に町づくりをしようとしたものであった。しかし、その北のはしには、大内裏に相当する幕府の建物を置くのではなく八幡宮を祭っている。これも、八幡宮を大切にしたことの表れといえるし、さらにその参道の役目も果たした若宮大路(段葛の道)をつくるに当たっては、頼朝自ら監督の役を務めている。
そのことについて、『吾妻鏡』には、次のような記述がある。「(八幡宮の参道をつくり直すということは)日ごろから(頼朝が)心掛けていたことでるが、忙しさにまぎれてそのままになっていた。しかし、御台所(政子)が出産しそうだというので、早速この仕事をはじめることになった」
鎌倉幕府は、八幡宮の東側の山すそに広い土地をみつけてつくられた。これを土地の名にちなんで「大蔵幕府」とも呼んでいる。広さは650m四方くらいで、中には寝殿・釣殿・大御所・小御所・公文所(政所)・侍所・問注所など、さまざまな建物がつくられていたらしい。建物は粗末で、ごく簡単なものであったが、南側に平野が開け、まちが見渡せたといわれる。また、御家人たちは、若宮大路にそつて邸を建てたり、山のふもとで谷が入り込んでいるところ(やつと呼んでいる)に邸をつくったりした。
やつは、山にかこまれて、敵を防ぎやすい。強い風を避けることもできる。それに山際に邸があれば、鎌倉の外から攻めてくる敵にすぐ立ち向かうこともできるので、このようにしたのだと思われる。
寺も同じような理由で、山際につくられることが多かった。
寺は、いざというときに砦になったのである。
鎌倉七切通
鎌倉七口(かまくらななくち)とは三方を山に囲まれた相模国鎌倉(神奈川県鎌倉市)への、鎌倉道などの陸路からの入口を指す名数で、鎌倉時代には、「七口」の呼び名は無く京都の「七口」をもじったもので「鎌倉十橋」「鎌倉十井」などと並ぶものである。鎌倉七切通(かまくらななきりどおし)とも呼ばれる。
七切通し
頼朝と朝廷
頼朝が常に不安に思い、また特に気を遣っていたのは、都にいる上皇や天皇、そして長い間全国を治めてきた朝廷が、武家の政権をどう思い、どう扱おうとするかということでった。
平氏を打倒し、武力では圧倒的な力をもつようになったときでも、そのことに変わりはなかったのである。
東国は頼朝を中心とする武家のものであった。さらに、奥州藤原氏を滅ぼしてからは、その地も傘下にはいっている。そこには、朝廷の支配から離れた独立国のような存在が形成されていたのである。
しかし頼朝は、その独立国のような東国でさえも、朝廷の意向によっては必ずしも安泰ではないことを知っていた。まして近畿にも西国にも、御家人は広がっている。その御家人たちも、頼朝を頼っているのである。彼らの地位を保証するためにも、朝廷のもつ伝統的な力を無視することはできなかった。
こうして頼朝は、少なくとも表面的には、朝廷に対してことさらにへりくだった態度をとることに努めた。
また、すこし後のことになるが、頼朝はその娘大姫を、後鳥羽天皇の后にしようとして手を尽くしたという話も残っている。とすれば頼朝は、外戚の立場の獲得もねらっていたかもしれない。こうして、朝廷の融和を図ろうとする一方で頼朝は、
「これまでのような朝廷の政治では、部下の御家人の生活を守ってやることはできない。御家人の生活を守るためには、自分(頼朝)がもって強い力をもつようにならなければならない」という気持ちを捨て去ることもできなかった。
だからこそ頼朝は、1183年(寿永2)10月には、後白河法皇に要求して東海道・東山道につながる諸国の支配権を認めさせた(十月の宣旨)。
また、『吾妻鏡』によれば、その2年後の11月には、都を出て行方不明になった義経をさがすという名目で「各地に守護・地頭をおくこと、兵糧米を1反(約10アール)あたり5升集める権利を与えること」などをみとめさせたと、書かれている。
守護・地頭
この守護・地頭がとんな役割をしたものなのか、これが置かれたことによって、それぞれの国や村の政治がどう変わっていったのか、などのことは、学者の間でもさまざまな意見があある。ただ、おおむね次のような役割をしていたと考えてよいようである。
守護・・・はじめは「総追捕使」と呼ばれた。
守護のおもな役目は「大犯三箇条」にあるといわれている。このは、①大番催告(都にのぼり、天皇の御所を守る役を大番役というが、この役ににでることについて、御家人を指図すること)、②謀反人の検断(幕府にそむく者を取り締まること)、③殺害人の倹断(殺人の罪を犯す者を取り締まること)の3つをさしている。しかし実際には、それらのほか、国内の御家人を指図して、いざというときには、軍司令官になること、御家人に、幕府の命令を伝えること、国内の寺社を修理したり、道路をととのえたりすることなど、国内の寺社を修理したり、道路をととのえたるすることなど、幕府側の地方長官の役割をはたたしていた。
地頭・・・守護が国ごとにおかれたのに対して、地頭は公領(国衙領=国がおさめている土地)の郡・郷・保(ほう)、あるいは荘園などに置かれた。そして、それぞれの地域で、役人のかわりとしての仕事や犯罪の取締りなどをした。
しかし、実際に守護・地頭が置かれて右のような役割を果たすことは、国にあっては国司と守護が、荘園では領主と地頭が、そして公領(国衙領)では在庁官人と地頭とが、それぞれ対立し、農民は二重支配をうけることになる。これまで朝廷を中心につくられてきた地方政治の仕組みが崩れてしまうことにもなるのである。
これは、都の貴族たちにとって、武家からの無理難題とうけとめられた。そかもそれは、彼らの生活にもかかわる大問題であった。幕府に味方することが多かった九条兼実でさええもその日記『玉葉』に、「言語道断」の言葉を書き残したが、その言葉通りにまことに腹立たしいおもいだったに違いない。
これに対して頼朝は、
「これはまったく、自分の利益のためにしたことではあありません。近頃のように、各地の土民(農民)たちが謀反を起こすようになってはたいへんですから、前もってその用意をしているだけなのです」と答えたという。
こうして頼朝は、一方では朝廷を大切にするようにしながら、他方では、武家の力を全国に及ぼすことにつとめた。そして、1192(建久3)には征夷大将軍に任ぜられた。それは、伊豆で平氏打倒の兵をあげてから12年目のことであった。
1190年頃の守護配置図
鎌倉幕府の成立はいつか ~「治承4年」から「承久3年」まで9説~
鎌倉幕府がいつ成立したのか、学界では定説がないという、
1 治承4年(1180)8月 源頼朝挙兵、地域支配を開始
2 治承4年(1180)10月~12月 南関東軍事政権の成立
3 寿永2年(1183)10月 「十月宣旨」による東国支配権の獲得
4 元暦元年(1184)4月 公文所・問注所の開設
5 文治元年(1185)12月 「守護・地頭」の設置の勅許
6 健久元年(1190)11月 源頼朝の右近衛大将就任
7 研究元年(1190)末 源頼朝が日本国総追捕使・総地頭の地位を獲得
8 健久3年(1192)7月 源頼朝の征夷大将軍就任
9 承久3年(1221)6月 「治天の君」の権限が関東に移行
頼朝と鎌倉幕府
頼朝が征夷大将軍に任ぜられるとともに、鎌倉幕府の存在は公にも認められることになつた。
その幕府の中心になっていた役所が、
・侍所(武士の取締りに当たる。長官は和田義盛)
・公文所(一般政務をつかさどる。長官は大江広元)
・問注所(訴訟・裁判をつかさどる。長官は三善康信)
の三つである。
このうち和田義盛は、頼朝に早くから従い数々の手柄をたてた武将である。戦上手はあったが無思慮なところも多く、しかし、御家人の評判はよかった。これに対して大江広元、三好康信は、かつての朝廷に仕えていた下級役人であり、頼朝に招かれて鎌倉に下った者たちである。
実は、東国武将の中には、戦いには優れていても政治となると不得手な者が多かった。というよりは、彼らにとって重要なのは自分の所領の安堵であって、政治の仕組みとか政治の仕方などには、関心がなかったといったほうがいいかもしれない。もちろん、少年のころに伊豆に流され、ここで長く過ごしてきた頼朝自身にも、政治についての実務的な知識への自信はなかった。
それだけに、重要な政府を御家人たちに任せるわけにはいかない。実務にすぐれた、大江・三善などの力を借りる必要があったのである。
しかし、最後の決断は、すべてにわたって頼朝がしていたらしい。たとえば裁判の実務を担当するのは問注所でああったが、実際にはここは裁判の準備をするたけで、最終的な判決は頼朝に頼っていたらしいのである。その意味では吉利もは、鎌倉幕府の独裁者であった。
その頼朝は、征夷大将軍に任ぜられてから7年後の、1199年(正治元)に死んだ。その原因は、御家人の一人稲毛重成がつくった橋の落成式に出席した帰り、落馬したことにあったといわれている。怨霊におどろかされて落馬した、という言い伝えもあるが、確かなことはわからない。年は53歳、一世の英雄源頼朝も、その死は、まことにあっけないものであつた。