歌人としての実朝
歌人としての実朝
政治についての関心がうすかった実朝は、御家人たち、特に北条氏からは「安全な将軍」とみられていたらしい。そして、政治や軍事のことはほとんど北条氏がまかされ、将軍としての実朝の仕事は、寺社におまいりして国の平和や豊作を祈ることが、主なものになっていった。しかしその一方で、歌人としての名は広く知られるようになっていった。『金塊和歌集』は、その実朝の歌集として名高い。なお、この歌集名の金とは、鎌倉の鎌の字の偏で将軍家のこと、塊とは、大臣という意味の中国風の呼び方である。
つまり『金塊和歌集』とは「右大臣になった鎌倉将軍家の和歌集」という意味になる。この歌集には、719首がおさめられているが、そのうち663首は22歳までにつくった歌だといわれている。その中から、いくつかを次に紹介しておこう。
ときにより すぐれば民の なげきなり
八大竜王 雨やめたまえ
(あめが必要だからといって、降りすぎれば民をなげかせるばかりです。八大竜王よ、どうぞ雨をやめさせてください)
箱根路を わがこえくれば 伊豆の海や
おきの小島に 波のよる見ゆ
大海の いそもとどろに よする波
われてくだけて さけて散るかも
いとおしや 見るになみだも とどまらず
親もなき子の 母をたずぬる
どれも優れた歌である。実朝は、このような和歌をつくるとともに、都の暮らしや文化にあこがれた。特に、後鳥羽上皇の親戚にあたる女子を妻に見換えてからは、都のならわしが、実朝の身辺に次々に取り入れられるようにもなった。しかし、このような実朝の生き方は、武勇を好む御家人たちにとっては、はがゆくてならない。なかには、「このごろは、和歌をつくったり、蹴鞠をすることがさかんになり、武芸はすたれてしまったような感じがする。それに、女のほうがとうとばれ、勇士らしい者はすくなくなった」とあからさまに嘆く武士もいたほどである。もちろん、武士たちのこのような不満を、実朝自身もよく知っていたにちがいない。けれども、北条氏をはじめ、有力御家人が力をふるっている以上、実朝が政治に口を出すことは、とうていできなかった。そのためもあったのだろうか、実朝は、自ら中国へ渡ろうとする計画を立ててもいる。そのいきさつは、つぎのようである。
1216年(健保4)6月、陳和卿という中国(宋)人が鎌倉へきて、次のように将軍(実朝)に申しでた。「実朝公の前世は、中国育王山の長老であります。そしてね前世の自分は、その長老の教えをうけた門人でした。その長老に、いまこの世であえるとは、もことにうれしいことです。ついては、実朝公をぜひ育王山へおつれしたいものです。」陳和卿は、東大寺の大仏や大仏殿を再建するために招かれた技術者であるが、その技術を鼻にかけて日本人をばかにするふうがあつた。それにペテン師でもあったらしい。ところが実朝は、この陳和卿の申し出を受け入れた。そして、由比ヶ浜で、中国へ渡るための大きな船をつくらせた。この船は、5か月余りでできあがつたが、砂浜にめりこんで、どうしても海にうかべることができなかったために、中国へ渡る計画は中止となったという。それにしても実朝は、どうしてこんないいかげんな話に乗り気になったのだろう。おそらく日本での生活に失望し、中国へのがれたかったのではなかろうか。その実朝は、朝廷に対して、「官位をあげてれるように・・・」と盛んに頼みこむようになった。これにも反対はあった。
特に大江広本などは、「父君(頼朝)や兄君(頼家)も、そんな高い位になどついてはいません。武士でありながら、朝廷にへつらって高い官位を望むことなど、むだなことです。それに、官位を急にのぼっていった者は、早死にするともいわれています」などといって、実朝をいさめたという。これに対して実朝はこう答えた。
「源氏の血筋は、おそらく私がきりでたえてしまうだろう。また、私のいのちも、長くはありまい。だから私は、せめていまのうちに高い官位について、源氏の家名をあげたいのだ」こうして実朝は、1216年(25歳)には権中納言・左近中将。1218年(27歳)には権大納言兼左大将、ついで内大臣、さらに右大臣と、めったにないほどのスピードで昇進していった。
実朝の死
「私の命も、長くはあるまい」という実朝の予感は、まもなく現実のものとなった。1219年(承久1)1月27日、実朝は二大将軍頼家の子公暁のために、鶴岡八幡宮の境内で殺されてしまったのである。この日、鎌倉は夜になってから大雪になり、60センチ以上も降り積もった。その大雪の中で、実朝が右大臣になったことを記念しての、就任拝賀の式典が盛大に行われた。事件は、その式典がおわったあとに起こった。暗闇の中を、たいまつを待った者が先導の役割をつとめながら、まず階段をおりてくる。そのあとにつづくのが、右大臣の源実朝。式典に参列した公卿たちに目をやりながら、ゆっくりと歩みを進める。実朝の剣をもった源仲章も、それにしたがう。
と、そのとき、「親のかたきは、こうして討つものだ」と、ずきんをかぶった法師が、突然、襲いかかってきた。そして、雪の上にころんだ実朝にとどめをさし、その首を打ち落とした。このずきんをかぶった法師こそが、公暁である。公暁は、前々から実朝を狙っていた。そして、この式典の日を、計画実行の日と定めた。この日、数千人の武士も参加していたが、いずれも鳥居の外にいて、実朝のまわりには、武装した者はいない。夜のことなので、物陰にかくれるにもつごうがよい。実朝を打ち果たすには、よい条件がそろっていたのである。
それにしても、公暁が「親のかたき」といったのはおかしい。親、つまり彼の父頼家を殺したのは北条政子や時政だったはずである。それなのに、実朝を「親のかたき」といったのは、だれかにふきこまれていたのにちがいない。さらに、「実朝さえいなくなれば、源氏の血筋をひくあなたこそ、次の将軍になれるはずだ」と、そそのかされてもいたのだろうと思われる。公暁は、実朝を打ちとったあと、三浦義村のところに使いをやり、「いまこそ自分は、東国の大将軍である」と伝えたというが、それも、将軍になろうとしていたことの表れだったのだろう。
では、公暁をそのような気持ちにさせたのは、だけだったのだろうか。これについては、さまざまな意見がある。例えば、ある学者は、「それは、北条義時にちがいない。義時は、公暁をそそのかして実朝を討たせた。さらに将軍を殺した罪で公暁を殺し、源氏の血筋をたえさせたのだ。その証拠の一つは、もともと彼の役目であった『御剣を持って実朝に従う』という役を、源仲章とかわったことだ。
彼は、事件の起こる少し前に、急病わ理由にして仲章と代わっている。これは、事件の発生をあらかじめ知っていたことの表れだ」という。また、ある人は、「いや、そうではあるまい。公暁をそそのかしたのは、三浦義村だったのではないだろうか。義村は、公暁に実朝を殺させたのち、彼を将軍におしたてて幕府の実権を握ろうとした。ところが、実朝と一緒に北条義時も殺してしまおうとしたのに、そのことは義時の『急病』によって失敗した。そのため、公暁を裏切って、これを殺してしまったのではないか」と推測している。いまとなっては、どれが真実であるのかは、はっきりしない。
ただ、公暁が、だれかにおどらされて実朝を殺し、源氏の将軍が三代でほろんでしまったことは確かである。そしてこのあとは、北条氏が執権となって幕府の政治をとりしきるようになっていったのである。