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歴史ネタ帖

織田信長 「大うつけ」のころ

「天下布武」の望み  ~「大うつけ」のころ~

信長が、尾張国で生まれたのは、ザビエル来日よりおよそ15年ほどまえのことである。その後しばらくの間は那古野城(今の名古屋城)に住み、13歳で元服、14歳で初陣、15歳で斎藤道三の娘濃姫と結婚という年月を過ごしている。こういうと、いかにも順調な日々を送っていたかのように見えるかもしれないが、時はまさに戦国時代たけなわのころ、下克上の波はこの尾張国へも押し寄せてきていて、彼の周囲は決して平穏ではなかった。

第一に、信長の父信秀は決して有力な大名であったわけではない。

むしろ、尾張国の守護斯波氏の守護代をしていた織田大和守につかえ、清州三奉行といわれた家柄の者である。つまり、当時としては中期級の武士なのであった。しかも、下克上の風潮の中で、しだいに勢いを伸ばしていったため、信秀を憎む者、すきあらば宇頭とする者などが少なくなかった。

第二に、信長には10人余りの兄弟がいたが、これが必ずしも信用できない。戦国時代においては、兄弟や親せきが最もてごわい敵になねということは、決してめずらしいことではなかった。

第三に、尾張国のまわりにも、今川義元・斎藤道三などをはじめ、有力な戦国大名や武士が数多くいる。これらに対する備えもおろそかにできなかった。

信長は、このような情勢の中で成長していったのである。少しでも油断をすれば、敵につけこまれる。もしかすると兄弟が攻め寄せてきて、ほろばされるかもしれない。信長の成長の日々は、決して平穏なものではなく、生命の危険を感じるような、不安にみちたものであった。もちろん父信秀も、そのような不安を取り除くことにつとめた。信長が15歳のとき、美濃国の戦国大名斎藤道三の娘を嫁にしたのも、この政略結婚によって、織田家が安泰をはかろうとしたのである。

このような情勢の中で、信長の暮らしぶりは、大変変わっていた。『信長公記 しんちょうこうき』という本には、その様子が描かれている。「そのころの服装は、着物を片肌脱ぎにし、半袴をつけるというだらしないものであった。しかも、腰のまわりには、火打ち石を入れた袋をはじめ、いろいろなものをぶらさげていた・・・」「まちをお通りになるときは、たくさんの人が見ているのに一向にかまわず、栗・柿はいうまでもなく、瓜などにもかぶりついて食べていた。また、人によりかかりながら歩くという有様でもあった」武士と言えば、ことさらに礼儀正しさが求められた時代であったのに、まして武士の若君がこの有様では、人々が評判にし、噂するのもむりまない。

「織田の若殿は、大うつけ(大ばか者)だ」と、人々はいいあったという。その「大うつけ」信長の振る舞いとして、もう一つ忘れられない出来事がある。それは父信秀が死んで、その葬儀がおこなわれたときのことである。葬儀は、たいへん盛大であった。300人ほどのお坊さんがいっせいに経文をとなえ、焼香の人々も列をつくって続いたという。しかし、その大勢の人々の前にあらわれた信長の姿は、腰には縄をまきつけて刀をさしこみ、父のいたいに向かってパッと投げつけるという振る舞いをしたのである。厳粛な葬儀の最中に、仏(信秀)の跡継ぎである信長がこのような振る舞いをするなど、参列した人々にとって考えられないことであった。そして「やはり、信長殿は大うつけなのだ」という評判を、いっそう高めたのであった。

 

 

「大うつけ」の正体

信長は本当に「大うつけ」だったのだろうか。不思議なことに、先にあげた『信長公記』は、うつけものの信長とはまったく違う次のような姿も紹介している。「信長公は、16.7歳のころまでは、馬の稽古を朝夕に行い、また3月から9月までは川で水泳の練習をするなど、ほきの遊びはほとんどしなかった。」「あるとき、槍を使っての訓練をご覧になったが、『短い槍はよくない』といって、6メートルほどの長槍にさせた・・・」この記述からわかるのは、武術の訓練にはげみ、武器の研究を怠らなかった信長の姿である。では、「大うつけ」と、このような真剣でまじめな姿と、どちらが本当の信長だったのだろうか。これについては、どちらも信長の本当の姿であったのではないかという意見が強い。

 

※『信長公記 しんちょうこうき』

 信長や秀吉・秀頼に側近く仕えた太田牛一という武士は、信長が1568年に京都に上ってから、1582年に本能寺の変で自害するまでの15年間の記録を詳しく残した。これを信長の死後まとめたのが『信長公記』である。成立は慶長年間といわれている。彼自信が、「私の考えをいれることなく、事実を正しく記した」と述べているように、この本は、信長についてのほぼ正確な記録だといわれている。

一年に一冊、全部で15冊になったものを『信長記』というが、これに京都に上る以前について書いた部分(首巻)を加えた16冊を、『信長公記』と呼んでいる。本文に紹介した信長の若い頃の様子は首巻に記されていることである。

 

 ≪太田牛一 (おおた ぎゅういち、うしかず)≫ 1527~1613年
戦国時代から江戸初期にかけての武将。和泉守、通称は又助。牛一のよみは、ぎゅういち、うしかず、ごいちなどの説がある。織田信長の祐筆であったという説はよくみられるが実際はあやまり。

1527年、尾張国春日井郡山田荘安食村(現名古屋市北区)にうまれる。織田氏の家臣柴田勝家に仕えるが、弓の腕を認められ、織田信長の直臣となる。永禄7年(1564)、美濃斎藤氏の堂洞城攻略では弓をもって活躍。その後は側近として、主に政治的手腕を持って内外の諸問題を広く治め、本能寺の変の際には近江国の代官を務めていた。文才に優れ、信長・秀吉・秀次・秀頼・家康の軍記などを著述したが、信長の一代記である『信長公記』が特に有名。

 

 

 

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