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歴史ネタ帖

ザビエルとキリスト教 

ザビエルとキリスト教

鉄砲が伝わってから6年ののち、日本の歴史にとって忘れられない人物が、はるばる海を渡って九州の鹿児島に到着した。フランシスコ・ザビエル。わが国にはじめてキリスト教を伝え、熱心に布教したスペイン(イスパニア)人である。ザビエルが日本に来ることを決意したのは、マラッカ(マレーシア)で、「黄色い顔に切れ長の深い目をもつ、不思議な東洋人」アンジローと出会ったからであった。

彼はアンジローと話合い、その人柄を知るにつれて、「アンジローは、学ぶことの好きな男だ。もしすべての日本人が彼と同じようであれならば、日本人は、新たに発見された諸国民のちで、最も高級な民であるに違いない」と、固く信じるようになった。

さてザビエルは、この「高級な民」にキリスト教を広めようとしてマラッカを出発したが、彼のねらいは、それだけではなかったらしい。それは、のちに記した手紙の中に、つぎのような文があることからもうかがわれる。

「・・・都から2日ばかりいったところにある堺は、全国の金銀の大部分が集まるにぎやか港です。私たちは、まもなくこの堺に、神のおぼしめしによって、たいへん利益のあがるポルトガル商館を開くことができるとおもいます。・・・・」これをみるとザビエルは、日本と親しくすることにより、貿易の利益をあげようとも考えていたと思われるのである。ザビエルは、このような願いを胸にひめながら、1549年、アンジローとともに鹿児島についたのであった。

 

※ザビエル 1506~52年
 日本に初めてキリスト教を伝えたザビエルは、「身の丈は高く顔色は白くイキイキして晴れやかであり、たいへん人懐っこい。両目も髪もひげも黒い」などと評された。当時の多くの日本人は、まことに魅力的な人物として受け止めたようである。ザビエルの訪問をうけた大内義隆は、たいへん上機嫌であったという。

彼は、ザビエルが差し出した「国王への手紙(インド総督がしたためたもの)」や「国王への贈り物」を受け取って、まるで国王になってかのような気持ちになったのかもしれない。また、大型の精巧な時計、小型のピアノ、美しいガラスの器や鏡、めがね、そのほか鉄砲など、珍しくすばらしい贈り物の数々に、ただただ驚くばかりでもあった。彼は、返礼として、金銀を山と積んだ盆をザビエルに与えようとした。

しかしザビエルは、これを受け取らない。ただ、「私は何もいりません。それよりもキリスト教を広めることを許してほしいだけです」というのであった。こうして大内義隆の許しを受けたザビエルは、城下町山口で布教を始めた。ここには五か月余りしかいなかったが、それでも500人ほどの人々が信者になったといわれている。やがて、山口のザビエルのもとへ、豊後国(大分県)の大名大内義鎮(宗麟)からの使いが来た。「実は、わが領地である日出(ひじ)の港に、ポルトガル船がきている。船長はドアルテ・ダ・ガマというのだが、あなたにぜひ会いたい、話を聞きたいといっている。どうか、この地まで来ていただけないだろうか」というのである。

 

この船長はかねてからザビエルと親しい間柄であった。「ぜひ、あの船長にあいたいものだ。されに、山口での布教の目的は、ほほ果たすことができた。せっかくの招きであるから、豊後国へいってみよう。」ザビエルは、山口をあとにして豊後国の府内(大分)にむかった。そして船長とともに、大友義鎮の待つ府内の城を訪れたが、その行列のはなばなしさは、町の人々をおおいに驚かせたといわれている。記録によると、ザビエルたちの一行は、すべてはなやかな衣装を身に着けていた。さらに日よけのおおいをつけ、絹の旗をかかげた三そうの小船に分乗し、にぎやかな音楽をかなでながら川を上っていたという。黒い法衣の上に、真っ白な司祭服を着たザビエルの姿は、いちだんと立派であった。しかも、城に入ったザビエルが、定められた席に着こうとすると、彼に従っていたポルトガル人が、あざやかな色のカッパをさっとその足元に広げるというありさまであった。このような姿は、大友義鎮をはじめ、その家来たちをどれだけ驚かせたかしれない。もっとも、そのように驚かせることこそ、船長ダ・ガマのねらいでもあった。船長は、そうすることによって、ザビエルの立派さを、いっそう引き立たせようとしたのである。ザビエルはこの府内で二か月の間、不況に力を尽くした。その間に、周防の大友義隆が家臣の陶晴賢のために討たれるという事件が起こっている。まもなく、ザビエルは来日からわずか二年余りで豊後の地を去った。しかし、ザビエルのまいた種は急速に成長し、キリスト教は各地に広まっていくことになったのである。

 

※ 天皇の生活
 ザビエルが京都に入ったのは1551年ころのことであるが、この頃の天皇(後奈良天皇)の生活はたいへんくるしいものであった。御所を囲う築地塀は崩れ落ち、夜になると遠くからでも御所の明かりが見えるほどであったという。この崩れ落ちた塀を乗り越えて、御所に入り込むものも少なくなかった。紫宸殿の前にある右近の橘の下に、茶店を出す町人もいたし、紫宸殿の縁先に上り込んで遊ぶ子供たちもいたといわれているほどである。

また、御所の一部に銭を包んでおくと、天皇みずからが書いた短冊や色紙を手に入れることができたともいわれいている。ザビエルは、天皇のこのような姿を見て、天皇を頼って布教することをあきらめたのであった。

 

 

 

≪宣教師の人々≫
ザビエルとともに、あるいはその後に日本にわたってきて、キリスト教の布教に努めた宣教師は多い。

ガスピル・ビレラ( ? ~ 1570)
将軍足利義輝の許しを受けて、初めて京都を中心に布教を行った。
当時京都を支配していた大名松永久秀は熱心な法華宗信者で、その迫害をうけることも多く、戦国の世で戦火もこうむることも多い京都で、困難にもめげす信者をふやした。

ルイス・フロイス  (1532~97 )
ビレラとを助けて布教に尽くした人。
1563年に来日、織田信長・豊臣秀吉らをはじめ、多くの大名とも親しく交わった。
1597年に長崎で死んだが、『日本史』という題する本を残している。

アレッサンドロ・バリニャーノ  (1539 ~ 1606 )
1579年に来日、大友義鎮・大村純忠・有馬晴信ら九州の諸大名の援助を受け、織田信長にも歓待された。四人の少年を使節としてローマに送ることを計画し、実行にうつした人としても名高い。(天正遣欧少年使節) 1603年日本を去り、マカオで亡くなる。

 

宣教師の見た信長

信長に会ったフロイスは、次のように記している。「この尾張の王は、背が高く痩せていて、髭は少ない。高い小おを出す人で、武技を好み、ふるまいは乱暴である。正義を尊び決断が早い。戦い上手であるが、部下のいうことはほとんど聞かない。各地の諸侯に対してもこれを軽蔑し、肩ごしに話かけるような口の利き方をしている。神や仏などはほとんど信じていないし、占いに頼ることもない。いちおう法華宗ということになっているが、うちうの造主・霊魂の不滅などはありえないし、死後には何も残らないのだと、はつきり言い切っている。

また、「信長は、自分のことを第六天魔王と呼んでいる」とも書き遺している。第六天魔王とは、「悪魔の王、そしてさまざまな宗教の敵」というような意味である。信長はまた、「日本においては、自分こそが生きた神、生きた仏であり、神主や坊主が大事にしている石や木などは、神仏ではないのだ」とも言い切ったという。信長は、この世で信じられるのは、自分自身以外はないと考えていたのだろう。

 

 

新しい町、安土

信長は、安土城を築くとともに、次のようにしてここに新しい町をつくろうとした。

・部下の大名や武士たちの邸を城のまわりにつくらせ、妻子も一緒に住まわせる。

こうすることによって、敵に攻められたときは、城を守るのにたやすかったし、出陣のときは、すぐ軍隊を集めることができた。

・商人や職人を集めるために、「安土で商売する者からは、いっさい税を取らない」「たとえ徳政令がでることがあっても、安土の町だけはそれを通用しない」「他国から移って来たものも大事にする」「また、自由に商いすることを許す」などの条件を出した。

これらのことを、楽市・楽座とよんでいる。

このためわずかな間に、安土の町は6千人もの人でにぎわうようになった。このことなども、新しい時代を進んで築こうとしていた信長の気持ちを、よくあらわしたものといえるだろう。

 

キリスト教の保護

もともと神や仏への信仰心がうすく、ことに仏教に対しては、憎しみまでいだいていた信長であったが、同じ宗教でありながらキリスト教に対しては寛大であった。

むしろ、進んでその布教を助けたといったほうがよいかもしれない。

その理由の一つとししては、キリスト教の宣教師たちが、自分の利益を考えることなく、ただ神につかえ、神の教えを広めようとしたこと、またその使命感から、はるばる海を越えてやってきた勇気に感動したことがあるのだろう。

苦労をものともせずに、新しい土地で新しい宗教を広める。

これは古いものをうちこわして新しい世界を築こうとしていた信長の心構えとよく似ているものであった。

それだけに信長は、「おのれの利益ばかりを考えるくされ坊主にくらべて、なんという立派さだ。彼らこそ、優れた戦士なのだ」と考えたのにちがいない。

第二の理由としては、この宣教師、そして南蛮商人たちを通して、新しい文化を取り入れたい、という信長の願いがあったことがあげれる。

おそらく「自分がつくろうとしている新しい世界の建設のためには、ヨーロッパの文化が必要なのだ」という気持ちもつよかったのだろう。

 

 

 

 

 

 

伊藤マンショ

当時の企画展の様子です。

 上野の博物館です。

 2014年にイタリア北部在住の個人所蔵となっていたそれまで未確認の伊東マンショ像がトリブルツィオ財団によって発見された。その後同財団に所蔵が移り、2016年5月17日から7月10日まで、東京国立博物館で日本初公開されました。なおこの絵はドメニコ・ティントレット(ティントレットの子息)画と推測されている。

 伊東 マンショ(永禄12年(1569年)ごろ – 慶長17年10月21日(1612年11月13日))は、安土桃山時代から江戸時代初期のキリシタンです。天正遣欧少年使節の主席正使、イエズス会員でカトリック教会の司祭で、ンショは洗礼名、本名は祐益。

曽我兄弟の仇討ちで有名な工藤祐経の伊東一族の末裔になります。

天正18年(1590年)、日本に戻ってきたマンショらは翌天正19年(1591年)、聚楽第で豊臣秀吉と謁見し、秀吉は彼らを気に入り、マンショには特に強く仕官を勧めたが、司祭になることを決めていたためそれを断っています。

 マンショは小倉を拠点に活動していましたが、慶長16年(1611年)に領主・細川忠興によって追放され、中津へ移り、さらに追われて長崎へ移りました。長崎のコレジオで教えていましが、慶長17年(1612年)11月13日に病死しています。

 彼らが携帯していた大友宗麟の書状は偽作である可能性が高く、実際には宗麟は少年団派遣を関知しておらず、有馬氏・大村氏・ヴァリニャーノが主導となって行ったものであり、「大友宗麟の名代」として彼を任命したのは、宗麟本人では無い可能性が高いことが松田毅一の論文などで指摘されています。

 なんか、もの悲しいような表情をしている伊東マンショです。

長い旅路で、どんな世界をみたのでしょうか。

 

 

 

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