猪苗代氏(いなわしろし)とは?
猪苗代氏
猪苗代氏(いなわしろし)は、桓武平氏、三浦氏の流れを汲む日本の武家の氏族で、蘆名氏の支流です。
三浦氏の一族の佐原氏の佐原盛連の長子で蘆名光盛(蘆名氏の祖)の兄である猪苗代経連が鎌倉時代中期に陸奥国耶麻郡猪苗代を本貫とし、猪苗代氏を名のったのがはじまりです。本家の蘆名氏からは独立の傾向が強く、室町時代から戦国時代にかけて、たびたび合戦をしています。猪苗代経元の代で後継がなく、蘆名氏から養子として盛清を迎えます。
猪苗代盛清の子・猪苗代盛国は、隠居した後に家督を再奪取した上で伊達政宗に通じ、蘆名氏の衰退を見てついに政宗に寝返り、摺上原の戦いで伊達側につき活躍しました。盛国の子・盛胤は廃嫡された後は父と敵対し蘆名氏の味方をしたとされます。伊達政宗は小田原征伐参陣の後、一部領地替えとなり、猪苗代氏の領地も替えられてしまいます。幕末まで仙台藩士として伊達家に仕えました。野口英世の父「佐代助」の実家「小桧山家」は子孫に当たるため、野口英世は猪苗代氏の子孫になります。
摺上原の戦い
摺上原の戦い(すりあげはらのたたかい)は、戦国時代の天正一七年(一五八九)七月十七日(旧暦六月五)に、磐梯山裾野の摺上原(福島県磐梯町・猪苗代町)で行われた出羽米沢の伊達政宗軍と会津の蘆名義広軍との合戦のことです。この合戦で伊達政宗は大勝し、南奥州の覇権を確立しました。
伊達政宗が、蘆名家の居城・黒川城を攻めるには、猪苗代湖の北にある猪苗代城を何としても落とす必要がありました。
当時の猪苗代城主は猪苗代盛胤で、天正一三年(一五八五)に父の猪苗代盛国から家督を譲られて城主になていました。しかし、盛国は隠居ながらなおも隠然たる影響力を持っていました。先の継嗣争いでも小次郎派(※)に与していました。ところが継嗣争いで敗れ、また盛胤とも不仲になり、隠居を次第に後悔するようになっていたのでした。
※蘆名氏の相続争い
伊達政宗の同母弟・小次郎と佐竹義重の次男・義広であった。小次郎と義広は政宗の曽祖父・伊達稙宗の血を受け継いでおり、その稙 宗は盛氏の叔母を正室にしていた。つまり、曽祖母を介して両者は蘆名家の血統を受け継いでいたのである
また盛国は、後妻が生んだ盛胤の異母弟の亀丸を溺愛しており、盛胤を廃嫡して亀丸に家督を譲りたいと思うようになていました。そのため天正一六年(一五八八)五月一〇日、盛胤が黒川城に出仕している間に盛国は猪苗代城を乗っ取ってしまいました。家臣の大半は盛国に従い、あくまで盛胤を支持する家臣は斬られ、激怒した盛胤は盛国を攻めるが猪苗代城は奪還できず、金上盛備が仲介に入ってひとまず父子は和睦しました。
政宗はこの盛国の後妻に近づいた。そして後妻を通じて盛国に内応を呼び掛け、盛国が遂に応じたのでした。
猪苗代氏の祖 三浦氏(みうらし)
三浦氏(みうらし)は、平安時代の相模国の「みうら」の地を本拠地との諸説あるが、三浦氏は平姓直系の氏族である。
源頼朝公によって建立された横須賀市の義明山満昌寺には,三浦氏の祖を平高望(高望王)の子・良兼とする系図が存在し、『二中歴』に示される良文流の血統と矛盾するため、良文流か良兼流かを特定することは困難であるという。『二中歴』を始めとする諸資料による十分な検証が行われておらず正確なことはわからない。
三浦氏は、為通・為継・義継・義明・義澄・義村の六代に渡って一族を形成している。
※『二中歴』(にちゅうれき)は、鎌倉時代初期に成立したとされる事典
猪苗代氏の祖 三浦義明
義継の嫡男・三浦義明(一〇九二年~一一八〇年)は義澄とともに一一五六年の保元の乱・一一六〇年の平治の乱で源義朝に従って戦います。
平治の乱では義朝が敗れ、三浦一族は戦線離脱に成功し、京都から落ち延び帰国します。その後、自領で雌伏していたが、大番役の行き帰りに源頼朝の配所を訪ねるなど、源氏との繋がりを保っていました。
義明は父にならい三浦介と号し、三浦荘(現神奈川県横須賀市)の在庁官人を務めました。治承四年(一一八〇年)、頼朝の挙兵に応じて、三浦一族は挙兵します。しかし石橋山の戦いで頼朝敗戦の報せを聞き、義明ら一族は引き返し、籠城戦、義明は一族を安房国に逃したあと、衣笠城合戦で戦死してしまいます。
義明の長男は義宗で、杉本氏を名のりますが三九歳でなくなり、その息子の義盛は和田氏を名のります。
長男の義宗没後、家督は次男の義澄が継ぎました。
三男の義久は大多氏を名のります。
四男の義春は多々良氏を名のり、その息子家村は佐久間氏を名のります。
五男の義季は、長井氏を名のります。
六男義連は佐原氏を名のり、宝治合戦で本家が滅んだ後は、この家が嫡流となりました。また、猪苗代氏、北田氏、鎌倉氏、蘆名氏、新宮氏、加納氏等、奥州で栄えた子孫がいます。
三浦流佐原氏 猪苗代氏のルーツ
佐原氏(さはらし、さわらし)は、日本の氏族のひとつ。
相模三浦氏の一族である。三浦大介義明の子・十郎義連を祖とする。宝治合戦で本家三浦氏が滅んだ際には盛連系を除く佐原氏の一族はこれに殉じて族滅している。わずかに盛連一族のみが生き残った。
その出身である盛時は三浦氏を再興し、また、盛時の兄弟たちの子孫は会津の豪族として活躍しました。他にも越後山吉氏は男系では佐原氏の子孫です。
※大介とは
大介(おおすけ)とは、平安時代後期に諸国の国司が公文書を発給
する際に自署に用いた私的な称号。諸国において広く用いられてい
た。和訓は「おほひすけ」
三浦大介義明の末子である義連は、相模国衣笠城の東南・佐原(現・神奈川県横須賀市佐原)にちなんで佐原十郎と名乗りました。これが佐原氏の始まりです。
佐原義連は平家追討、奥州合戦などで功を立ててます。特に後者では陸奥国会津を報償として与えられ、後に佐原氏が会津の豪族として発展する土台を築きました。
建仁三年(一二〇三)に義連は死去しますが、その後の佐原氏の家督がどのようになったかは定かではありません。ただ、義連の息子のうち、盛連の遺児たちが会津地方にちなんで名字を名乗り、後に当地の豪族として発展していったことからすると盛連は会津地方を相続したと考えられます。
実際に会津蘆名氏は、盛連を初代とする系図が見受けられます。盛連は本家である三浦義村の娘である矢部禅尼と結婚していますが、彼女は最初は執権北条泰時と結婚して時氏を儲けたものの夫と離別して盛連と再婚したのです。これにより盛連は得宗北条氏と縁繋がりました。
宝治元年(一二四七)に三浦氏追討の命令が下されて宝治合戦が勃発します。この戦いでは佐原氏のほとんどが三浦側に加わりましたが、北条氏の縁繋がりのある盛連の遺児たちは北条側に加わりました。戦いの結果、三浦氏の本宗は族滅亡してしまいましたが、佐原氏も同時に盛連系を除いて族滅したのです。宝治合戦後に盛連の五男・盛時は三浦介を継承して三浦氏を再興することが許されました。これが相模三浦氏です。また、盛時の兄弟の子孫は会津の豪族として発展しました。その中で有名なのは会津守護と呼ばれた蘆名氏です。盛時の孫である明連は越後国の池保清の娘と結婚しました。二人の息子である成明は母方の池氏の名跡を継ぎ、その子孫は山吉氏として発展ました。
湯川村北田城主 ~猪苗代氏の祖、経連の弟~
北田城(きただじょう)は福島県河沼郡湯川村にあった日本の城です。
鎌倉時代初期に佐原盛連の次男・広盛が北田氏を名乗り、城を築いたのが始まりと言われています。
なお、広盛の兄・経連は猪苗代氏の祖です。弟・光盛は蘆名氏の祖です。
応永9年(1402年)、北田氏は同じ蘆名氏一族で、新宮庄(現在の喜多方市一帯)地頭の新宮城主・新宮盛俊と結んで黒川城の蘆名氏に反旗を翻し、そのため応永16年(1409年)6月、北田城は蘆名氏によって攻め落とされ、城主・大庭政泰(北田上総介)父子らは討死し、北田氏は滅亡しました。
宝治合戦(ほうじかっせん)
宝治合戦(ほうじかっせん)は、鎌倉時代中期に起こった鎌倉幕府の内乱です。執権北条氏と有力御家人三浦氏の対立から宝治元年(一二四七)六月五日に鎌倉で武力衝突が起こり、北条氏と外戚安達氏らによって三浦一族とその与党が滅ぼされました。三浦氏の乱とも呼ばれます。この事件は、得宗専制政治が確立する契機として評価されています。また、この事件の推移、経過を記述する史料は、『吾妻鏡』しか現存しません。
幕府創設以来の雄族三浦氏の滅亡により将軍側近勢力は一掃され、合議制の執権政治は終わりを告げ、北条得宗家による専制体制が確立しました。
北条泰時の前妻だった矢部禅尼の再婚後の子供達である三浦氏佐原流は生き残り、のちに三浦姓を名乗って三浦家を再興しています。また、毛利季光の一族はこの時に大半が果てていますが、越後にいた四男毛利経光のみが生き残り、後に戦国大名となる安芸毛利氏へと続いています。