近世の種痘
近世の種痘
種痘とは痘瘡(とうそう)(天然痘 てんねんとう)の予防接種のことで植痘(うえほう)ともいいます。
18世紀末に、人痘と牛痘との免疫上の関係をつくることに成功したのが、イギリスのエドワード・ジェンナー(1749~1823)です。1798年に発表されたジェンナーの牛痘法はイギリスでその真価がみとめられ、ついでヨーロッパ大陸からアアメリカに渡った。ジェンナーの発明後数年にして極東の地にもたらされた。
日本に渡ってきたのは、それから50年近くたった嘉永2年(1849)のことであった。この遅れは江戸幕府の鎖国政策による佐賀藩藩医楢林宗建の進言に従って、長崎の蘭館医オットー・モーニケはバタビヤから牛痘の「かさぶた」を取り寄せ、これを用いて宗建の手によつて成功させた。
長崎で成功した種痘は、その冬に伊東玄朴によつて江戸で行われ、一方京都の日野鼎哉のもとにもたらされた痘苗は、大阪の緒方洪庵に分苗が許され、笠原良策(白翁)によって、福井に種痘所が設けられた。次第に普及していったが、これをうける民衆の反応はまことに冷たかった。さらにこの仁術を金儲けの手段にする医師の横行さえみられたので、まず大阪の種痘館が安政5年(1858)4月に官許となり、同年5月江戸でも83名の蘭方異医の協力によって、神田お玉ケ池に種痘所が創設され、牛痘接種の拠点となった。