士族と官吏
士族と官吏
1880年(明治13)の記録によると、中央・地方の全官吏の74%は士族であった。官吏の給料はきわめて高く、1878年には最下級の官吏でも月給12円であったという。
ところが、官吏になれたのは、全士族の1割くらいであり、官吏になれなかった士族の生活はみじめであった。農商業に従事しても、なれないためにほとんどが失敗して、家屋敷や家財を売り払う者も多かった。
公議所
公議所は、明治初めにつくられた立法機関である。明治政府は各藩の対立を避けるために、1869年(明治2)3月7日、公議所を設けた。公議所は、各藩からえらばれた公議人(任期4年、2年ごとに半数が改選)によって組織されたが、18697月8日の官制改革で集議院と名前を変えた。
大江 卓 (1847-1921)
土佐藩出身の政治家である。1867年には、中岡慎太郎の率いる陸援隊に入り、倒幕戦にも参加した。1871年(明治4)には、2度にわたって穢多・非人廃止の建白書を出す。1872年神奈川県令のときには、横浜に入港したペルー汽船マリア・ルーズ号が中国人奴隷を多数載せているのがみつかるという事件が起こったが、このとき彼は、その奴隷を解放したことで、一躍有名になっている。
その後、西南戦争のときに挙兵を計画してとらえられ、許された後は自由民権運動に力を注いだ。晩年は実業界でも活躍している。
新しい身分
「愚昧な」国民を教え諭すという、政府当事者の考えが最もよく表れたのは、警察官の態度である。
例えば、このころ警察制度整備の中心になって活躍した薩摩藩出身の川路利良は、次のような考えを基本にもつ人物であった。
「・・・政府は父母であり、人民は子である。たとえ子が父母の教えを嫌うことがあっても、これを教えるのは父母の義務である。幼者が成丁に至るまでの間は、政府は警察の予防によって、この幼者を保護しなければならない」(内務卿への建議書)
だからこそ、しの意をうけた警察官(薩長の下級武士出身者が多かった)は、1872年(明治5)以来、東京府をはじめ各府県で制定された違式詿違条例などをもとに、人々を厳しく取り締まった。この条例は、
・道路の並木に、古いわらじをかけておくこと。
・女が断髪したり、男が女の格好をしたりすること。
・大凧をあげること。
・道路に荷車をおいて、通行人のじゃまをすること。
・みんなから見えるところで肌脱ぎをしたり、裸になったりすること。
など、主に不作法であったり、見苦しかったりする行いを禁じたものだが、警察官はこれによって、国民生活の一挙一動までを監視し干渉しようとしたのである。
その態度につしては、当時、「今のポリス(警察官)は、政府の威光をかさにきて、人民を塵芥(ごみ)ででもあるかのように見下し、さげすんでいる。人民を守るべき役目をもつ者であるのに、かえってその命をそこなうかのようなことをしていることも多い。まことに、肝のつぶれるような思いである」というような批判まで出されている。
こうして警察官は、「お上」の象徴にもなったのであった。
徴兵制を実施するのに都合のよい条件が整った。
1871年(明治4)の廃藩置県によって藩や藩主と士族とのつながりが切れたこと、また東京には約1万御親兵があって、もし士族らが反乱を起こしても、これをしずめる自信ができたこなどがそれである。
こうして、山県らの努力と説得をもとに、1872年11月28日、まず「全国募兵ノ詔」とそれについての説明をした太政官告諭がだされ、続いて翌年1月10日に、いよいよ徴兵令が発布されることになったのである。
徴兵・懲役の1字違い
ところがこの徴兵令がもとになって、たちまちのうちに全国に農民一揆がひろがってくことになった。その重要な原因の1つになったのは、太政官告諭の中に「人タルモノ、固(もと)ヨリ心力ヲ尽クシ、国ニ報セザルベカラズ。西人之ヲ称シテ血税トス。其生血ヲ以テ国ニ報セザルベカラズ」という文があったためである。
もともとこの告諭は、なぜ徴兵制をしくのか、どうして国民皆兵にする必要があるのかを、わかりやすくしらせようとするものであった。だからこの中には、
・ずっと昔日本では、全国民はすべて兵士であったこと。
・徴兵制は、四民平等の考えをもとにしてできたものであること。
・国に災いが襲おうとしているとき、国民自身がその災いをふせぐのは、重要な義務であり、自分の生命を守るためにも大切であること。
などのことが記されている。
ところがその中に、前にも記したような、「人ひみな、心力を尽くして国のために働かなければならない。ヨーロッパではこのことを、『血税』と呼んでいる。この言葉は、『生血をささげて国に尽くす』という意味のものである」という文章が記されていたのである。もちろん「生血を捧げて」というのは、自分の血を取り出してというような意味ではない。「一身をなげうって」とか、「生命を投げ出して」とかいうような意味である。
けれども、これを読んだ人々は、そのようには受け取らなかった。
「血税とは、血をしぼりとられることらしいぞ。西洋人よく赤い色の酒をのんでいるが、あれは、徴兵であつめた若い者を逆さにつるし、その血をしぼったものだそうだ」
「そういえば、軍隊で使っている赤い毛布も、軍服や軍帽の赤色も、血でそれたものだということだぜ」
というような噂話が、さもおそろしげにはなし合われるようになつたのである。
もともと農民は、若い働き手を何年もの間、軍隊にとられることなど、考えてみるだけでもいやなことであった。それに軍隊にはいれば、どんな苦労がまっているこもしれない。そのうえに「血税」のおさろしさもある。
そこで、「徴兵・懲役の一字ちがい。腰にサーベル、鉄ぐさり」とうたわれ、さらに「徴兵反対」の血税一揆が各地で起こることになつたのである。
山県有朋は、長州藩出身で松下村塾で吉田松陰の教えをうけ、1863年には高杉晋作らとともに騎兵隊をつくり、その軍監・総督になって、維新の動乱の中で活躍しました。
維新後には、ヨーロッパ各国を視察し、帰国後は兵部少輔となり、さらに72年(明治5)に兵部大輔となって徴兵令の制定に尽力したのです。
また73年には陸軍卿になるなど、日本陸軍の育ての親となった人物でした。